クロどんなテーマから読みたいニャ?
クロどんなテーマから読みたいニャ?

「私はどこかおかしいのかもしれない」――そう感じたことはないだろうか。
こんな経験をすると、ふと「自分は普通じゃないのかもしれない」と不安になる瞬間がある。
あなたは、どこもおかしくない。
これは、介護福祉士やメンタルケア心理士を学んでいる私ではなく、一人の人間として伝えたい言葉だ。
たとえ診断を受けたとしても、1人のかけがえのない人間だという、あなたの本質は変わらない。



自己理解は、個性として受け入れるところから始まるニャ。
私自身も、長いあいだ「生きづらさの正体」を探してきた。
専門家ではないけれど、自分の内面を言葉にすることで、少しずつ光が見えてきた。
この記事では、その体験と心理学の知見をもとに、「自分を言葉にする」自己理解のプロセスをまとめている。
✅この記事の概要
🪞この記事は「自己理解シリーズ」の第2弾。前後どちらから読んでも理解できる構成になっている。


ここで紹介する枠組みが「生きづらさ」を感じている原因を決定づけるものではありません。
メンタルケア心理士®1を学ぶ中で得た知見を元に、私の自己理解に必要な事前知識として紹介しています。
また、他者に対して「○○症かもしれない」といった言及をすることは医学的な診断行為にあたる可能性があり、決して行うべきではありません
「神経発達症」は、発達の過程で脳の働き方に特徴が現れる状態を指す。
生まれつきの脳の特性が、日常生活の中で影響を及ぼすことがある――それが神経発達症と呼ばれる状態だ。
ただし、これは「脳の異常」ではなく、働き方の違いにすぎない。
誰しも、神経発達症の要素となる特性を多かれ少なかれ持っている。
次に紹介するパーソナリティ傾向も同じである。
たとえば「集中力が続かない」「注意がそれやすい」という傾向があっても、日常生活にまったく支障がない人もいる。
かつては「発達障害」と呼ばれていたが、現在ではより中立的でやさしい表現として「神経発達症」という言葉が使われている。
注意力の差や感覚の敏感さ、対人コミュニケーションの難しさなど、現れ方は人それぞれ。
こうした違いは「障害」ではなく、脳の多様性(ニューロダイバーシティ)として理解されている。



要は「おかしい」のではニャく「希少」なだけなのニャ。
人には、生まれ持った性格の傾向がある。
パーソナリティ(性格)の形成は、遺伝的な要因と環境的な要因の二つが複雑に影響しあって形づくられると考えられている。
この「遺伝と環境」という二つのピースが、たまたま特定の組み合わせで強く現れるとき、ある性格傾向がはっきりと表に出ることがある。
心理学ではこうした傾向を「パーソナリティ傾向」と呼び、病気ではなく心のクセとして捉える。
たとえば、慎重さが強く現れる人もいれば、完璧を求めすぎて自分を追い込んでしまう人もいる。
どちらも「間違っている」わけではなく、性格の一部が少し極端に出ているだけだ。
たとえば、非行を繰り返す人がいたとしよう。
「親の育て方が悪い」「性格に問題がある」そう考えてしまう人もいるかもしれない。
しかし実は、完璧主義(強迫的)や依存傾向と同じく、反社会性も人が生きる上で身につける〈防衛のかたち〉のひとつだ。
人は誰しも、傷つかないための自分なりの防衛を持っている。それがときに「反発」や「拒絶」として表に出ることがあるだけだ。
つまり、おかしな人なんて誰もいない。
客観的に〈おかしな人〉に見えても、その人の内側には、一貫した核(コア)となるパーソナリティが確かに存在している。
ではここからは、私自身の個性を、実際にポジティブに再構築してみよう。
なお、ここで述べる内容はすべて私自身の内省と自己診断によるもので、医療的な判断や診断ではありません。
詳しい人生史は以下に記載している。ここでは箇条書きで簡潔に自己紹介をまとめてみよう。


私は現在、赤面しやすい傾向を持っている。
集団での会話や、自分の内面を語る場面になると「あ、赤面するかも」と分かる瞬間があり、言葉がうまく出てこなくなる。
これは、次のような要因が関係していると思われる。
以前はそれを「弱点」だと思っていたが、今では自分の感受性の高さがもたらす自然な反応のひとつだと理解している。
こうした特性は社会の中で生きづらさを感じる要因にもなるが、同時に、観察力・誠実さ・他者への思いやりを育ててもくれた。
赤面するというのは、心が誠実に反応している証拠だ。
「恥ずかしい」ではなく、「心を守ろうとしている」からこそ起こるサインでもある。
今では、赤面も自分の大切な一部だと感じている。
赤面は、脳が〈自分を守ろうとしている〉サイン
この気づき以来、赤面は恥ずかしいものではなく、「誠実さと感受性を伝えるサイン」として、少しずつ前向きに受け入れられるようになってきた。



恥ずかしがりやな自分も、立派な〈感受性スキル〉なのニャ。
私は生まれつきの傾向のひとつである「強いこだわり」を持っている。
ただし、昔のように困ることはほとんどなくなった。むしろ、これらの特性は今では自分の強みとして働いている。
特に「没頭しやすい」という特徴は、集中力や創造力として発揮されている。
対人関係でも「赤面するから何?」というくらい、自然体でいられるようになった。
困っていないからこそ、今はむしろ「将来の孤独リスク」という新たな課題に向き合っている。
人は社会的な生き物であり、孤独には本質的に弱い存在だからだ。
それでも、これらの傾向を受け入れ、活かしながら生きている自分を肯定できている。
残されたテーマは、「どう孤独と共に生きるか」という未来への問いだけだ。
また、この性質は「没頭する幸福」であるフローに関しては間違いなくプラスになる。


上記と同様に、生まれつきである「限局的な学習傾向」も持っている。
特定の学習分野において、理解や表現に偏りが見られる傾向。主に以下の3つに分類される。
私の場合は、特に「読む」「書く」そしてそれに伴う文法や構成の整理が苦手という傾向がある。
まとめると、これは「文字や言葉を理解する〈脳の経路〉が他の人と少し違う」可能性がある。
これを裏付けるように、外国語や古文、漢文など「言語変換が複雑な分野」は特に苦手意識が強い。
これらの特性は、学生時代の学力にも影響していたと思う。
当時は「怠けている」「勉強が嫌い」と誤解されやすく、自分でもうまく説明できなかった。
今ではスマホやパソコンの入力環境が助けになり、思考をより自由に言語化できるようになった。
かつての「苦手」は、デジタルツールとの相性の良さとして活かされている。
つまり私は、〈文字〉や〈言葉〉を「イメージ」や「体験」として理解するタイプ。
一般的な学び方とは違うだけで、深い理解と創造性を育てる〈右脳型の学び方〉なのだと思う。
ちなみに、自分用の〈殴り書きメモ〉程度なら問題ない。誤字だらけでも、自分が読めればそれでいい。
私には特異なパーソナリティ傾向もある。それが強迫的な思考パターンだ。
おそらく一部は、こだわりが強い傾向や、いじめ体験、過去の失敗経験が影響していると思う。
完璧主義的な部分では困ることも多い。
たとえばこの記事も何度も校正を重ねるうちに、文章のつながりが崩れてしまうことがある。
また、お金に関しても「無駄を出したくない」という意識が強く、買い物や交際面では少し慎重すぎるかもしれない。
それでも、私はこの傾向を「健康習慣を徹底できる性質、内省を継続する性質」として活かしている。
さらに、ルーティン化が得意な特性と組み合わさることで、日々の生活や自己管理では大きな強みになっている。
ここまで振り返ってみると、ふと考える。「私はどこかおかしいのだろうか?」
――いいや、違う。
私はただ、人と少し違うだけだ。
今の私は、自分の性質を〈内向型〉と受け止め、そのままの生き方を肯定し、幸福を見出している。
こだわりが強い傾向は一人の時間を深め
限局的な学習の偏りは物語への没入力を育て
強迫的な思考パターンは健康習慣の継続力につながっている。
これらはすべて、外から与えられたものではなく、内側から自然に湧き上がる衝動だ。
私は自分を〈内向型〉であり〈内的刺激追求型HSP〉だと考えている。詳しくは「ビッグファイブ×人生史」の記事へ
ただ、科学的な「外向性/内向性」でいえば、幼い頃に外で友達と走り回るのが好きだった私は、本来は外向的な気質を持っていたのかもしれない。
だからこそ今は、外向的なエネルギーを〈内的な探求〉へと向けて生きている。
それが、私にとっての「内向型としての幸福」のかたちだ。



良い・悪いじゃなく、内向型/外向型のちがいニャ。
〈内向型〉は、病気や異常ではなく、心の働き方や感じ方のひとつのあり方です。
私はその枠組みを、自分の特性をポジティブに理解しやすくするための言葉として用いています。


今の私は人生を前向きに捉えており、特に日常で大きな不便を感じてはいない。
では、かつて苦しんでいた頃になぜカウンセリングを受けなかったのか?
その理由は、私自身の特異なパーソナリティ傾向にある。
実際、通院を途中でやめてしまう「ドロップアウト」という言葉があるように、継続的な支援を受けるには心理的なハードルがある。
また、今の私が受診しても「日常生活に支障がない」ため、診断が下るかどうかは分からない。
だからこそ、私は専門的な支援を受ける代わりに、自己理解という形で自分の心と向き合っている。
もし今、あなたが「生きづらい」「自分だけおかしいのでは」と感じているだろうか?
まず知ってほしいのは――それはあなたのせいではないということだ。
人はみな、生まれも育ちも、脳の働き方も違う。
あなたが感じている苦しさは、ただ〈少し違う仕組み〉で世界を受け取っているだけなのかもしれない。
診断を受けることがゴールではない。
けれど、もし日常生活に支障を感じているなら、専門家に相談することは「弱さ」ではなく「自分を守る行動」だ。
カウンセリングや通院は、心を治すためではなく、
あなたの特性を理解し、これからの生き方を整えるためのサポート。
勇気を出して一歩踏み出せば、あなたの〈生きづらさ〉は〈自分らしさ〉に変わるかもしれない。



苦しさを言葉にするのも勇気ニャ。一歩ずつで大丈夫ニャ。
実際の精神医療の基本は〈来談者中心療法〉つまり、あなたの意思と希望が最優先に扱われる。
カウンセリングでは、認知行動療法など科学的根拠に基づいた方法が使われる。
必要に応じて薬が処方されることもあるが、それはあくまで心身のバランスを整えるための補助的な手段だ。
薬の効果や副作用については、納得できるまで質問する権利がある。医療者もあなたを支える〈チームの一員〉であり、そこに上下関係はない。
私も以前は「精神科は薬ばかり出されるところ」というイメージを持っていたが、それは大きな誤解である。
メンタルケア心理士®の学びを通して、精神医療がいかに対話と支援を重視しているかを知ることができた。
通院やカウンセリングに行く勇気がないときは、まず〈学び〉から始めよう。
「なにを言っているんだ?」と思うかもしれないが、自分の心を客観的に知るための資格が本当に存在する。
それが「こころ検定」だ。
私自身も学んでいる「メンタルケア心理士®」資格では、この検定2級の合格が必須条件になっている。
実際に、この記事の内容の多く――およそ7割は「こころ検定2級テキスト」から得た知識を基にしている。
こころ検定のレベルは次のとおりで、自分の心の仕組みを理解したい人には4級・3級がおすすめだ。
一歩踏み出す勇気が出ないときでも、「学び」を通じて心を知ることは、確かな自己理解への第一歩になる。
カウンセラーという仕事は、「話を聞く人」ではなく「言葉にならない心の声を聴く人」だ。
人は誰しも、助けを求めながらも「大丈夫」と言ってしまう瞬間がある。
その沈黙の奥にある痛みや葛藤を、安心して出せる空間をつくること――それがカウンセラーの役割だ。
そして、そのためには知識よりもまず、共感と受容の姿勢が大切になる。
相手を変えるのではなく「苦しかったのですね」と寄り添う力だ。
私自身も、学びを通して「誰かの無言の悲鳴を聴ける人」でありたいと思うようになった。
ただ、私の性質上、人と深くコミュニケーションを取ることが難しい面もある。
だからこそ、このブログがある。内向型ラボは、私自身をカウンセリングする場所であり、同じように生きづらさを抱える人の心を少しでも軽くしたいという願いから生まれた。
苦しみをなくすのではなく、苦しみを抱えながらも生きられる強さを支える――それが、カウンセラーという仕事の本質だと思う。



話を聞いてもらえるだけで、心が少し軽くなることもあるニャ。




苦しかった過去も、逃げ続けた過去も、すべてを受け入れて一つの物語として語る。
それが「ナラティブ・アプローチ」と呼ばれる、自分の人生を再構成する対話法だ。
本来はカウンセリングで使われる手法だが、静かに自分と向き合うことで、自分でも行うことができる。
自分を言葉にする――最初は、どうしてもネガティブな言葉が出てくるかもしれない。
けれど、それでいい。ネガティブな自分をも受け入れることこそ、自己理解の第一歩なのだ。
あなたは、ありのままの姿で、すでに美しい。


✨ この記事のまとめ
本記事は、筆者の経験や公開された研究・書籍をもとにまとめた参考情報です。
内容を鵜呑みにせず、ご自身の感じ方や状況と照らし合わせながらお読みください。
ここで紹介しているのは、あくまで自己理解のヒントの一つです。
専門的な判断や緊急の対応が必要な場合は、ページ下部に記載した相談窓口。
あるいは公認心理師や臨床心理士などの専門家への相談もご検討ください。


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