「成功する人は本を読んでいる」――そんな言葉を目にしたことがあるかもしれない。
社会人は平均「○○冊」読むというデータ
読書をすると「人生が変わる」という煽り
社会には、このような少しプレッシャーを感じさせる言葉があふれている。
しかし私は「本はたくさん読まなくてもいい」と思っている。
「多読は悪」と言いたいわけではないし、たしかに読書は人生を豊かにしてくれる。
しかし、読書は「読んだ内容を、どのように自分の中に取り込んだか」が最も重要だと思っている。
例えば「年に○○冊読むこと」を目標にする読書は、楽しみを「義務」に変えてしまうこともある。
「10冊読む」ではなく「気づけば10冊読んでいた」くらいが理想的だ。
この記事では、私自身の読書に対する価値観や向き合い方、そして読書量を気にしなくてもいい理由を伝えていく。
目次
読書量を気にしなくていいのはなぜか?
読書について語られるとき、いつの間にか「どれだけ読んでいるか」が評価軸に変わってしまうことがある。
量を気にする必要は、必ずしもない。
「量」を気にすると「質」が落ちる
よく「目標は年に○○冊読む」「年に○○冊以上読む」と語る人たちを見かける。
たしかに他者から見れば「読書家」として分かりやすい指標ではある。
しかし、私は「読書量を気にした読書」をおすすめしない。
なぜなら、「本を読むこと」という目的が、「多く読むこと」という目的にすり替わってしまうからだ。
「よく知られた、多くのベストセラー本を選べば間違いない」
そう思いがちだが、人気という理由で自分に必要のない本を読むことに、本当に価値はあるのだろうか。
自己啓発本の「人生が変わる本」と呼ばれるものが、それぞれの人にとって「価値ある1冊」かどうかは分からない。
多読を続けていると「自分の心でじっくり味わう時間」が後回しになる可能性もある。
人生の主役は自分であって、他者の知恵にすべてを委ねていいものではない。
だからこそ、他者の評価に惑わされず「本当に読みたい本」だけを選ぶべきだ。
読書は「質」
私はいま、何を考えたいのか
この本によって、どんな変化を得たいのか
この本は、誰が、どんな意図で書いたのか
他人の読書量が気になる私たち
Microsoft創業者のビル・ゲイツは、週に1冊の本を読むという。
ほかにも、少し調べるだけで次のような情報が簡単に見つかる。
メンタリストのDaiGoは、1日に20冊
ウォーレン・バフェットは、1日5〜6時間を読書に費やしている
マーク・ザッカーバーグは、2週間に1冊以上
このように、有名人の読書量に関するデータは検索すればすぐに並べて比較できる。
さらに「世論調査」を引き合いに出し「日本人は読書をしない」と煽る記事も少なくない。
令和5年度「国語に関する世論調査」の結果について,p23
人は思っている以上に、他者がどれくらい本を読んでいるのかを気にしてしまう。
しかし、他者と比較して読む読書は、本当に楽しいものだろうか。
読書と比較ゲーム
他者と比較することや、読書冊数に目標を設定することが、結果的に不快な感情を生むことがある。
今月は5冊読了するという目標を達成できなかった。
なぜ、私はたくさん読めないんだろう。
あの人は、数日で読み終えているのに。
例えば、私は数年前、X(旧Twitter)で読書アカウントを運営していた。
読了本の感想を投稿するアカウントだったが、フォロワーが少なくても「いいね」が100を超えることが珍しくない。
つまり、当時の私にとっては、承認欲求が刺激されやすい世界だった。
私は最終的に、他者よりも「多く読む」ことを目標に据え、
読みたい本ではなく、「いいねが増えそうな本」ばかりを選ぶようになっていた。
まさに、「本を読む」という目的が、「承認欲求を満たす」という目的にすり替わっていた一例である。
好きな本を好きなようにツイートする人もたくさんいたニャ。
読書とは、何をする行為なのか?
そもそも、読書とは何をする行為なのか?
読むことと、考えることは別物
私は、読書を「内容を自分の中に取り込む行為」だと考えている。
世間では「本を読んで知識をつける」「本を読んだらアウトプットしよう」など、とにかく読書が推奨されがちだ。
しかし、知識を無差別に集めた先にあるのは「博識」
アウトプットを急ぎすぎると、自分の言葉ではなく「借り物の言葉」で埋め尽くされてしまう。
そこに、自分で考える余地は本当にあるのだろうか。
博識が悪いとは思わないし、「知識を集めること」自体を目的とした読書であれば、それはそれで価値がある。
読書によって視野が広がったり、創造性が刺激されたりすることも、もちろん否定しない。
それでも、小手先の技術で武装するより、間違いを恐れず「まずは自分の頭で考える」ことも重要だ。
哲学者が語る「読書の本質」
私の読書の考え方は、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの思想に近い。1
読書とは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことである。
自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識よりも、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。
アルトゥール・ショーペンハウアー『読書について』(光文社古典新訳文庫)
彼の言葉が示すのは「最後は自分の頭で考えることの重要性」である。
つまり、彼の言葉は単なる読書批判ではなく「思索につながる良書を読め」と説いているのだ。
しかし現代では、SNSで話題になったテーマが即書籍化され、流行に合わせて消費されることも珍しくない。
だからこそ、私がおすすめしたいのは、読書に批判的視点を持つことだ。
批判的視点とは「考え方が嫌い」という否定的な感情論ではない。
これは「本当にそうなのか?なぜそう考えるのか?」という多角的な視点を持つことを意味する。
こうした視点を持つことで、客観的・論理的に思考し、情報リテラシーや思考力を育てることができる。
内容を疑うのではなく、その背景を考えることが大切だニャ。
どんな本を、どう選べばいいのか?
「読書は量を気にしなくてもいい」と言われても「どんな本を選べばいいのか分からない」人もいる。
ここからは、どんな本を選ぶべきかについて語っていく。
今の自分に「なにが」必要か?
読書で最も重要なのは、今の自分に何が足りていないのか、何を求めているのかを把握することだ。
私は、どう変わりたいのか
私は、何を知りたいのか
私は、何を求めているのか
とはいえ「自分がどうしたいのか分からない」という人もいるかもしれない。
そういうときは、図書館や本屋に足を運ぼう。
目を引かれたタイトルについて「何が書かれていそうか」「なぜ惹かれたのか」を考えてみるといい。
その本が自分にとって本当に良い本かどうかは分からない。
それでも、悩んだ末に購入する時間そのものは、決して無駄ではない。
たとえその本が自分に合わなかったとしても、「この考え方は、今の自分とは一致していない」ということが分かる。
「誰が・どこで・なぜ」書いた本か?
もう1つ重要なのは、「どんな立場の人が、どこで、どんな理由で」書いた本なのかを意識することだ。
例えば、成功体験が豊富な著者による「成功するため」の本。
そうした自己啓発本に書かれているのは、あくまで「著者が成功した体験と習慣」だ。
文化も違う。性格も生活も立場も違う。そして、重要な要素である「運」が反映されていないこともある。
また、「習慣」については生まれつきの気質も大きく関係してくる。
例えば内向型の人が、外向型向けに書かれた本を読んでも腑に落ちないことがある。
特に、海外(アメリカなど)で書かれた自己啓発本は、日本の文化や価値観と異なる可能性もある。
だからこそ、その本に込められた著者の思想や文化、経験が、今の自分に合っているのかを考えることが重要だ。
私の「読書の価値観」
ここからは、私自身の読書に対する価値観を語っていきたい。
自己啓発は「エッセイ」として読む
私は、自己啓発本やビジネス書、思想書を、基本的にすべて「著者の価値観と経験談」として読んでいる。
一般に、読書には大きく分けて3つの読み方があると言われている。
- 作家論:著者の思想・立場・人生背景から読む
- 作品論:本の主張や構成、その完成度を読む
- テクスト論:書かれている言葉そのものを精密に読む
どれか1つだけが正解というわけではなく、3つの視点をバランスよく取り入れて読む人もいる。
私はまず、作家論の視点――「この人は、どんな立場で、なぜこの本を書いたのか」――を意識する。
そのうえで必要に応じて、作品論、テクスト論的に内容を拾っていく読み方をしている。
私の自己啓発本の読み方
この人は、どんな体験を前提に語っているのか
その言葉は「誰に向けたもの」なのか
いまの自分に重ねて、取り入れられる部分はどこか
そして、自分にとって役に立たないと思っても、その本はエッセイ、すなわち「ある人の人生の一部」という物語として読める。
物語は浸るもの
私は、物語は「読んで浸るもの」だと思っている。そこにジャンルの貴賤はない。
絵本、漫画、小説、エッセイ、ライトノベル、そして世間から軽んじられがちな「なろう系」であってもだ。
「読書をすると感情が豊かになり、共感力が高まる」と言われることがある。
私はその効果は、主に物語に由来するものだと考えている。
物語を読むことは、感情のアウトプットにもなる。
登場人物に共感し、行く末を案じ、結末に心を動かされ、涙を流す。
難しく考えず、文章を読み、感情をゆだねる。これはテクスト論の読み方に近い。
物語もまた、他の本と本質的には変わらない。そこには、確かに著者の思想が反映されている。
そのため「なぜこの物語が好きなのか、なにを学べるのか」と、読了後に考える事も多い。
それでも私は、物語体験(浸る)と読書体験(学ぶ)を、切り離せないながらも異なるものとして区別している。
科学的根拠を妄信しない
「この本には科学的根拠が書いてあるから信用できる」と言われて、あなたは本当に納得できるだろうか?
混沌(乱雑さ・散らかった環境)はステレオタイプや差別を強める
これは一時期、社会心理学者ディーデリック・ステイペルの研究によって「科学的事実」として広く受け取られていた。
しかし後に、データの捏造や実験の虚偽が発覚し、この論文は撤回された。
そこに「事実」と呼べる根拠はほとんど存在しなかったことが明らかになっている。2
他にも、心理学や社会学研究の世界では次のような例がある。3
- ハンス・アイゼンクは、生涯にわたる研究の中で多数の不正や深刻な疑義のある論文が指摘されている。
(心理学研究に大きな影響を与えた人物)
- 「老人」という言葉を聞くと歩行速度が遅くなる、というプライミング効果の研究は再現性が確認されていない。
- 人生の幸福度調査は、その時点の気分や直前の出来事といった瞬間的な感情に影響されることがある。
科学を扱う人間による不正はもちろん、たとえ不正がなくとも調査や解釈には人間のバイアスが入り込む。
確証バイアス、出版バイアス、p値ハッキング(欲しい出目が出るまでサイコロを振る)
誤解しないでほしいのは、私は科学を否定しているのではないということだ。
真実を求める学問として、科学は最良の手段だ。
上記の批判や再現性の有無も、別の科学者が「真実を追求した」結果だ。
私が言いたいのは「科学を絶対視して妄信しない」ということ。「暫定的な真実」はいつ更新されるか分からない。
このブログでも、科学的根拠を踏まえたうえで、自分の頭で『なにが必要で、なにが不要か』を判断したい。
価値があるのは「自分で考えること」
読書は「量」ではなく、読書そのものの質が大事だ。
「たくさん本を読むから偉い」というわけではなく、「本をどのように自分に取り込んだか」が重要だ。
例え1年に1冊しか本が読めなくても、その1冊が「人生のバイブル」になれば、それでいいと私は思う。
1行しか読めなくても、心が動いたならそれは立派な『読書』ニャ。
✅ この記事のまとめ
- 読書は「量」よりも「何を考えたか」が大切
- 他人の読書量や成功談と比べる必要はない
- 本はノウハウではなく「思想」として読む
- 科学的根拠も、鵜呑みにせず自分で考える
免責事項
本記事は「読書や科学を否定する」ものではありません。
それらをどのように受け取るかについての、1つの視点を提示するものです。
内容を鵜呑みにせず、ご自身の状況や感覚と照らし合わせてお読みください。
参考文献
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