人生は、おとぎ話から学べる。
日本のおとぎ話といえば「むかしむかしあるところに…」から始まる、教訓を含んだ物語が思い浮かぶだろう。
例えば、鬼を退治する桃太郎。約束を破ったことで悲劇が起こる瓜子姫など。
子どもに読み聞かせる物語として知られているが、大人になってから読むと、また違った味わいがある。
とくに、物語の中に潜む比喩や象徴は、読者の解釈に委ねられている。
そこには、大人でも、大人だからこそ考えられる倫理観や人生観を問いかける仕掛けがあるのだ。
桃太郎は、なぜ桃から生まれる必要があったのか?
ごんぎつねは、なぜ撃たれてしまったのか。本当はどうするべきだったのか?
瓜子姫に登場するあまのじゃくは、本当に「悪者」なのだろうか。それとも、何かの比喩なのだろうか。
おとぎ話は人によって解釈が分かれる。語り継がれてきた物語である以上、そこに「唯一の正解」は存在しない。
この記事では、私が特に好きなおとぎ話「はなさかじいさん」を題材に、この物語が持つ意味について私なりの解釈を紹介したい。
目次
おとぎ話「はなさかじいさん」
まず、おとぎ話(民話)として知られる「はなさかじいさん」とは、どのような物語なのだろうか。
ここでは歴史的な成立や異なる伝承には深入りせず、現代に広く知られている一般的な物語を確認しておきたい。
はなさかじいさんの物語(あらすじ)
はなさかじいさん(Wikipedia『花咲か爺』より引用)
ある山里に心優しい老夫婦と、その隣人に欲張りで乱暴な老夫婦が住んでいた。優しい夫婦が傷ついた子犬を見つけて飼うことにし、わが子のように大切に育てる
あるとき犬は畑の土を掘りながら「ここ掘れワンワン」と鳴き始める。驚いた老人が鍬で畑を掘ったところ、金貨(大判・小判)が掘り出され、老夫婦は喜んで近所にも振る舞い物をする。それをねたんだ隣の老夫婦は、無理やり犬を連れ去り、財宝を探させようと虐待する。しかし、指し示した場所から出てきたのは、期待はずれのガラクタ(ゲテモノ・妖怪・欠けた瀬戸物)だったため、隣の老夫婦は激怒して犬を殺害し、飼い主夫婦にも悪態をついた。
わが子同然の犬を失って悲しみにくれる夫婦は、死んだ犬を引き取って庭に墓を作って埋め、雨風から犬の墓を守るため、傍らに木を植えた。植えられた木は短い年月で大木に成長し、やがて夢に犬が現れてその木を伐り倒して臼を作るように助言する。夫婦が助言どおりに臼を作り、それで餅を搗くと、財宝があふれ出た。
それを知った隣の老夫婦は再び難癖をつけて臼を借り受けるが、出てくるのは汚物ばかりだったため、激怒して斧で臼を打ち割って薪にして燃やしてしまう。優しい老夫婦は灰を返してもらって大事に供養しようとするが、再び犬が夢に出てきて桜の枯れ木に灰を撒いてほしいと頼む。その言葉に従ったところ花が満開になり、たまたま通りかかった大名が感動し、老爺をほめて褒美を与えた(このときの台詞が「枯れ木に花を咲かせましょう」である)。
羨ましく思った隣の老夫婦がまねをするが、花が咲くどころか大名の目に灰が入ってしまい、隣の老夫婦は無礼をとがめられて罰を受ける(捕縛・投獄されるなど)。
日本人なら一度は耳にしたことのある物語だろう。
細かな違いは地域ごとに存在するものの、大筋の展開はほとんど共通している。
物語の流れを簡単に整理すると、次のようになる。
①優しい老夫婦が子犬を拾い「シロ」と名付けて育てる
②シロが畑で宝(小判)を見つける
③欲張りな隣の老夫婦が同じことを試すが、ガラクタしか出てこない
④怒った隣人がシロを殺してしまう
⑤老夫婦がシロを弔い、夢のお告げに従って臼を作る
⑥臼や灰によって奇跡が起こり、最後は「枯れ木に花」が咲く
⑦最後まで、いじわるなおじいさんは不幸な目にあう
おとぎ話として語り継がれる教訓
はなさかじいさんの物語は、一言で言えば「勧善懲悪」の構造を持つ。
善良な老夫婦はシロを大切に育て、最後には幸せな結末を迎える(勧善)
強欲な隣の老夫婦は他者を顧みず、最終的に不幸な結末を迎える(懲悪)
この構造から、はなさかじいさんは次のような教訓として読むことができる。
因果応報。善い行いは巡り巡って自分に返り、悪い行いもまた巡り巡って自分に返る。
勧善懲悪の物語で「因果応報」を示す構造は様々あり、日本に限らず世界各地の物語に見られる。
勧善懲悪的な因果応報の例
復讐として描かれる「カチカチ山」
悪い王妃が制裁を受ける「白雪姫」
正義の代行者として戦う「桃太郎」
正当防衛として描かれる「ヘンゼルとグレーテル」
ただ、はなさかじいさんで注目すべきなのは、善良な老夫婦が隣人に対して一切仕返しをしていない点である。
つまりこの物語は、単純な「復讐の物語」ではない。悪人は罰を受けるが、それは善人の手によってではない。
では、はなさかじいさんの物語では「悪の制裁」はどのように行われたのだろうか?
物語を一読しただけなら、強欲な老夫婦は自らの欲によって自滅したようにも見える。
しかし、本当に自滅なのだろうか?
物語に隠された三つの意味
勧善懲悪の物語は、読めば誰でも「そのように」解釈できるように作られている。
ではここからは、さらに一歩踏み込み、勧善懲悪の先にある「はなさかじいさん」の深層を見ていこう。
因果の層:善意は形を変えて循環する
はなさかじいさんの最も特異な点は、言うまでもなく「シロという名の超常的な力を持った犬」である。
おとぎ話では現実離れした出来事が起こることも多いが、この物語ではシロの存在だけが際立っている。
小判を掘り当て、死後も形を変えて超常的な力(創造・開花)を行使する。
では、このシロの特異性は何を象徴しているのだろうか。
学者であれば、シロの正体を日本の民間信仰に見られる「土地神信仰」から考察するかもしれない。
しかしここでは、テクストそのものから解釈してみたい。
すなわち、シロが象徴しているのは「感情の具現化」である。
思いの具現化
ここ掘れワンワン:私によくしてくれた老夫婦には小判を、いじわるをした老夫婦にはガラクタを
臼をぺったん:私によくしてくれた老夫婦には財宝を、いじわるをした老夫婦には汚物を
対照的な二組の老夫婦の違いは、善悪というよりも「シロに対して何をしたか」によって生まれているように見える。
シロに優しく接した老夫婦には善意が巡り、いじわるをした老夫婦には悪意が巡る。
その意味で、はなさかじいさんの物語において「善悪の代行者」はシロという犬である、と仮定できる。
さらに言えば、シロは常に自分によくしてくれた善良な老夫婦の側に立っている。
ここから導き出せる教訓は、次のようなものだろう。自分が感謝されるような行いを、他者にしてあげなさい。
模倣の層:外面だけの模倣とエゴイズム
今度は、強欲な老夫婦の視点から見てみよう。
彼らが行ったのは、いわば形だけの模倣である。そこには相手に対する「思い」がまったく考慮されていない。
彼らは目に見える表層しか見ていない。だからこそ、シロの能力を見誤った。
強欲な老夫婦の模倣
シロは「小判を見つけられる」犬である
臼で餅を搗くと財宝が出る
灰を撒くと花が咲く
「隣の老夫婦の真似をすれば成功する。思いなど関係ない。重要なのは模倣である」
シロの思い以前に、どう考えても愚かな発想である。しかしこの構造は、形を変えて現代にも残っている。
自分の欲望しか見えない人は、本質に気づくことはない。
この教訓から導かれるのは、形だけの模倣には意味がないということだ。重要なのは、本質を見抜くことである。
生命の層:枯れ木に花を咲かせましょう
最後は生命賛歌――枯れ木に花を咲かせるという美学である。
シロの超常的な力のうち「灰と開花」だけは、おじいさん自身に直接的な得があるわけではない。
だからこそ、この場面はもっと広い視点で見る必要がある。私はまず、木を「人生の比喩」として考えてみた。
その仮定の上で考えると、善良なおじいさんは、枯れ木に花を咲かせたいと願ったことになる。
おじいさんの善意がシロに伝わり、シロの善意がおじいさんに巡り、最後に枯れ木へとたどり着いた。
するとどうなるか。善意が巡り巡って、他者の人生を救った――そう解釈することができる。
「枯れ木に花を咲かせましょう」 → 「人生に花を咲かせましょう」
「優しさ」という思いは、ときに見知らぬ他者の人生さえも救うことがある。
いささか青臭く聞こえるかもしれないが、教訓としてはこれ以上ないほど見事な比喩と言えるだろう。
「枯れ木に花」は希望か、傲慢か
ここまでは、はなさかじいさんを「啓蒙的な教訓」として読むことができる。
だが、あえて違和感を指摘してみたい。あまりにも綺麗すぎるとは思わないだろうか?
善い行いには善い結果が返り、悪人は罰を受ける。物語としては何の欠点もないように見える。
だからこそ、少し視点を変えてみよう。たとえば――枯れ木の気持ちはどうだろうか?
枯れ木は満開になりたかったのか?
「枯れ木に花を咲かせましょう」——おじいさんが望んだのは、枯れた木を蘇らせる奇跡である。
「満開という栄光を、もう一度、人生という木に与えよう」
どんな人にも手を差し伸べる善人。善意が巡れば、どんな人生にも花を咲かせることができる。
それは「生を諦めるな」という力強い応援歌にも聞こえる。ここで、あえて枯れ木に人格があると仮定してみよう。
木にとっての花とは繁殖のための器官であり、生きるために不可欠な要素ではない。(木の本質は根・幹・枝にある)
役割を終えた枯れ木が、強制的に開花させられる。季節さえ無視されるなら、枯れ木には選択肢など存在しない。
枯れ木は、ただ静かに眠っていたかったのかもしれない
強制的に開花させられることで、苦痛を感じるかもしれない
確かに満開の桜は美しい。誰もがおじいさんの功績を褒めたたえるだろう。
しかしそこには枯れ木の視点がない。あるのは「花は美しい」という、人間の側の価値観だけである。
おじいさんは善人か?偽善者か?
枯れ木に花を咲かせるという、自然の摂理に逆らう行為。
おじいさんがしたことは、本当に「相手のため」だったのだろうか。それとも、価値観の押し付けだったのだろうか。
枯れ木の中には「もう一度満開になりたい」と望む木もいたかもしれない。
しかし、そうではない木もあったかもしれない。
たとえば現代でも「人が見ているところでは善人のように振る舞う者」は少なくない。
「やらない善よりやる偽善」とはよく言ったものだが、私はおじいさんの行為を純粋な善意として解釈している。
だがその善意も、一つ間違えれば価値観の押し付けに変わってしまう。
純粋な善意を相手に届けたいのなら、私たちはどのように振る舞うべきなのだろうか。
はなさかじいさんと多面的な解釈
はなさかじいさんを因果応報の物語として読むだけなら簡単だ。
しかし、あえてそこで「もし枯れ木に人格があったなら?」と想像してみる。
そうすると、物語は少し違った姿を見せ始める。
私はおとぎ話が大好きだ。子ども向けの話に見えて、そこには多様な解釈と倫理観が隠されている。
人生について考えるのに、難しい哲学書は必須ではない。
おとぎ話を読めばいいのだ。
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