「スーパーに売っている10個120円の卵は安い」
日常的に使われる、ごく当たり前の表現であり、この意味がわからない人はほとんどいないだろう。
では、「10個120円の卵を物理的に買う方法」と聞かれたら、どう考えるだろうか。
答えは単純——それは不可能である。
なぜなら「買う」という行為は、物を持ち上げたり運んだりするような物理的動作そのものではないからだ。
売買は社会の中でのみ成立する抽象的な概念である。
0(抽象)は1(存在)に物理的に干渉できないニャ。
私たち人間は、社会的な動物として、こうした概念をあたかも実在するもののように扱うことができる。
すなわち、本来は形のないものを「あるもの」として信じ、共有する力を持っている。
虚構を信じる力
売買:「所有」という概念をやり取りする行為
法人:組織を「人」とみなす仕組み(権利・財産・契約の主体)
貨幣:「価値」があると信じられていることで成立する概念
であるならば、幸福や自由といった「概念」もまた、概念のまま成立していることになる。
本記事では、この問いを手がかりに、「自由と不自由」という概念を日常的な事物から考えていく。
目次
「10個120円の卵」の存在と本質
私たち人間は、虚構を信じ、それを共有することができる。
では、存在と虚構の分岐点はどこにあるのだろうか。自由は虚構として存在するのだろうか。
犬には『卵』が見えない
まずは、販売されている卵の正体から考えてみる。
その卵は、どこまでが「存在」で、どこからが「虚構」なのだろうか。
これを確かめる方法は単純だ。人間以外の視点に立てばいい。ここでは犬を例にする。
動物は、虚構を共有する能力を持たない。ゆえに、言語による意味づけも行わない。
犬の視点から見れば、売買という仕組みは存在せず、卵という「言語的な分類」は成立しない
つまり、売買は虚構であり、120円という価値も虚構であり、卵という呼び名もまた虚構である。
犬にとっての卵は、ただ「目の前にある物質」であり、本能が直感する「食べ物」という事実だけしかない。
実存としての卵と、意味としての卵
では、私たちは「卵」という存在に対して、どこまで意味づけを行っているのだろうか。段階的に整理してみよう。
存在A:「卵」と名付ける(存在の分類・概念化)
卵を見る=Aを物理的に視認する
卵を取る=Aに物理的に接触する
卵を買う=Aを社会的にやり取りする
卵を盗む=Aを社会的な規範から逸脱して取得する
卵が安い=Aに価値判断を与える
この整理から分かるのは、私たちがまず「存在」を名詞として捉えることを前提にしていること。
そのうえで、多層的な意味づけを重ねているという点である。
代名詞として「それ」とされることもあるが、これは「卵という名詞の代名詞」である。
「目の前にあるもの」としての理解にとどまらず、「卵」という言葉には、社会的・文化的な意味が付与されている。
「10個120円の卵」は意味づけを重ねたラベル(虚構)ではあるものの、その存在は社会的に保証されている。
ここで注目すべきは、最後の「安い」である。この語だけが形容詞であり、すなわち主観的な判断に属している。
形容詞は「主観的な歴史」の別名
形容詞とは、名詞の状態や性質を表す言葉である。(高い・熱い・丸い・古い・美しい)
形容詞は一見すると客観的に見えるが、実際には個人の主観に依存する相対的な表現である。
この性質は、水の温度を例にすると分かりやすい。
夏に飲む「20℃の水」は冷たく感じられるかもしれないが、冬に同じ水を飲めば、ぬるいと感じる。
ここで起きているのは「比較」である。形容詞は常に、何かとの関係の中で成立する。
「より冷たくないもの」との比較で「冷たい」と感じる
「より温かいもの」との比較で「ぬるい」と感じる。
「丸い物」を知るには「丸くない物」も知る必要がある
言い換えれば、形容詞とはその人がこれまでに経験してきた比較の蓄積。すなわち「主観的な歴史」によって決まる。
比較の言語ゲーム
値段が高い:他の価格や自身の支出基準との比較
綺麗な花:「綺麗ではない」と感じる対象との比較
かっこいい人:「かっこよくない」とされる基準との比較
このように、形容は常に比較の上に成り立っている。
他の品詞にも主観的な側面は存在するが、多くの場合、それらは共通認識単体(パッケージ)として機能している。
「歩く・走る」の境界は人によって異なるが、他と比較せずともその動作単体で認識は成立する。
しかし形容詞は、比較対象となる経験や基準(=歴史)がなければ、言葉として成立しない。
いわゆる「認識の強度」を保つのに比較が必要なんだニャ。
卵の話に戻すと、より高い卵や他の食材、市場平均を知らなければ、「安い」という判断そのものが成立しない。
「自由」という名の形容詞
では、自由とは名詞なのだろうか。それとも、形容詞なのだろうか。
まずは辞書を確認してみる。一般的な辞書では、「自由」は名詞(および形容動詞)として扱われている。
じ‐ゆう〔‐イウ〕【自由】読み方:じゆう [名・形動]
1 自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。
2 勝手気ままなこと。わがまま。
3 消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、
積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。
4 法律の範囲内で許容される随意の行為。
Weblio辞典『自由の意味』から引用
これらの定義をよく見ると、いずれも何かとの対比によって成り立っていることが分かる。
「自分の意のままになる」=「意のままにならない状態」との比較
「強制・拘束・妨害を受けない」=「それらを受ける状態」との比較
「自己の本性に従う」=「それに反する状態」との比較
「自由」は名詞であるものの、その実態は、不自由との関係の中でのみ認識される動的な形容詞である。
言い換えれば「自由な」は単独で存在するのではなく、常に「比較」という構造の中で立ち現れる。
私たちの判断は常に何らかの制約の中にあり、その意味で「自由な」はすでに構造に規定されている。
つまり何が言いたいのか。私たちにとっての『自由』の本質は、形容詞的状態であるという結論である。
自由が比較から生まれる相対的なものなら、名詞としての「自由」に終着駅は存在しない。
お店で売っている卵に対して「安い」と感じることは、ある基準との比較によって生まれた肯定的な評価である。
反対に「高い」と感じることも、同様に比較の中で生まれる否定的な評価にすぎない。
「10個120円の卵」の存在と本質はすでに社会に規定されているが、それをどう思うかは自由だ。
自由や不自由とは、対象そのものに備わる性質ではなく、私たちの判断の中で立ち現れる「状態」なのである。
私たちの判断と「社会システム」
形容詞が主観的な比較を前提とするなら、次の疑問が生まれる。
「卵の値段が安い・高い」という判断は、自然界には存在しない。これは社会構造によって成立している概念である。
では、そのような構造を前提とした私たちの判断は、どこまで「自由な選択」といえるのだろうか。
損得勘定という名の「不自由」
私たちは「安い」「高い」と判断することができる。この点において、それは確かに自由な選択である。
しかし、その判断の内実を見てみると、そこには常に「損得勘定」という基準が介在している。
社会の損得勘定
自身の経済状況や経験と比較して、この卵は安いといえるか。
高速道路の料金と、利用しない場合の時間的・金銭的コストは釣り合うか。
中古の本と新品の本、どちらを選ぶべきか。
このような損得勘定の前提には、金銭や売買といった社会的な仕組みが存在している。
つまり、私たちは常にその枠組みの中で判断している。この枠組みこそが、見えにくい「拘束」である。
言い換えれば、私たちは選択しているようでいて、その選択の条件そのものはあらかじめ与えられている。
このような「拘束」はあまりに日常的であるため、私たちはそれを不自由として意識しない。
その結果、不自由は「前提」となり、自由だけが表面に現れる。
では、この「選択」を成立させている根本的な拘束とは何だろうか。
それが、法・秩序である。
機械仕掛けの女神テミス
日本の最高裁判所には、ギリシャ神話における法の女神テミスのブロンズ像が置かれている。
この像は、右手に剣(正義)、左手に天秤(公平)を持つ。しかし、掲げられているのは天秤ではなく剣である。
これは「力なき正義は無力である」という思想を象徴している。すなわち、法は単なる理念ではなく強制力を伴う。
私たちは普段「法」を犯罪以外に意識しないが、常に法という見えない力のもとに置かれている。
1. 損得勘定には「売買」というルールが必要。
2. 売買には「所有権」という法が必要。
3. 卵を安いと判断する自由の背景には「法の強制力」が横たわっている。
人はかつて、自然現象を神の力として理解し、やがては科学で神の解剖を始めた。
ゼウスの雷もまた、いまや電力として扱われている。人は神を部分的に支配することができたのだ。
しかし、法の女神テミスだけは異なる。
法(秩序)という仕組みは、人間自身が作り出しながらも、その内部にいる私たちを無意識に拘束し続けている。
それはまるで、機械(マキナ)のように自動的に作動し続ける、半透明な絶対支配装置である。
このマキナ・テミスが「10個120円の卵は安い」という感覚そのものの土台を作り出している。
自由の行使と「法の裁き」という帰結
「秩序は不自由を内包する」のだとすれば、その対義である混沌は自由を内包するのだろうか。
一見すると、秩序と混沌は対立する二つの概念に見える。しかし、両者は単純に分割できるものではない。
秩序は完全であることを前提とする。わずかな例外であっても、それは秩序の揺らぎとして連鎖していく。
1%の例外は、やがて秩序全体を侵食する可能性を持つ。蛇口が緩めば、水は止まらない。
では、混沌においてはどうか。
自由が比較によって成立するのだとすれば、比較の基準が失われた混沌の中では、「自由」もまた成立しない。
たとえば、漫画「北斗の拳」の世界を想像してほしい。そこでは「強さ」が唯一の基準となっている。
そのような世界において、力を持たない者が行使できる自由は極めて限定的である。
つまり、秩序を離れた自由は、無制限に広がるのではなく、むしろ急速に縮減していく。
既存のルールから外れた者は「アウトサイダー」と呼ばれる。
しかし彼らもまた、完全に社会の外にいるわけではなく、依然として社会との関係の中にある。
仮に「自由の権利」を掲げて犯罪行為に及べば、それは結果として他者の自由を侵害することになる。
ゆえに法の女神は、人々の「自由な」を守るために、不自由という形で秩序を行使するのだ。
社会システム内的存在は自由なのか?
秩序のあり方は、時代や国によって大きく異なる。制約が明確であるほど「自由」という感覚は立ち上がりやすい。
ルイ14世の「余は国家である」という言葉は、自己と秩序を重ね合わせようとする極端な例である。
誰もが理解している通り、人は国家そのものではない。
実在する個人が秩序を完全に体現することはできず、そのズレが緊張や混乱を生む。
マルクスが資本主義の問題を指摘した背景には、当時の労働環境における秩序の偏りがあった。
その後、制度が整備されることで雇用主は制約を受けて、労働者はより選択肢を持ちやすくなった。
ここで視点を個人に戻そう。
書物は「売買」「取引」「市場」といった秩序を経て私たちの手に届く。
このブログを支えるサーバーや通信にも、法という枠組みが前提として存在している。
私が記事を書くための知識を得られたのは、時代が生み出した制約と、人々の自由な思考が積み重なった結果である。
重要なのは、単に不自由が増えれば自由が生まれるという単純な関係ではないこと。
社会システムの中に制約があるからこそ、その範囲の中で選択が可能になり、結果として「自由」が立ち現れる。
自由の権利
私たちは、不自由を生み出す構造の中に生きている。
しかしその中にも、法の女神が直接触れることのできない領域がある。
それが思考である。考えることは、つねに内面的な自由として残されているのだ。
この点を象徴的に示すのが、イソップ寓話の「酸っぱい葡萄」である。
イソップ寓話『酸っぱい葡萄』
お腹を空かせたキツネが、美味しそうに実った高い枝の葡萄を見つけ、食べようとして何度も跳び上がる。
しかし、どうしても手が届かない。キツネはついに諦め、立ち去り際にこう言う。
「どうせあの葡萄は、酸っぱくてまずいに決まっている」
この寓話は一般に、「手に入らないものを否定する自己正当化」として解釈される。
しかし、自由と不自由という観点から見れば、別の側面が浮かび上がる。
それは、手に入らないという不自由に対して、意味づけを変えることで自らを解放する「思考の自由」の行使である。
「甘い」という形容を「酸っぱい」に置き換えているニャ。
現実の制約は変えられなくとも、その解釈は変えることができる。
そして、この内面的な自由だけは、どのような法や秩序によっても完全に奪うことはできない。
ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所において、ヴィクトール・フランクルが見出した自由と同じ構造である。
現代における本当の自由とは何か?
私たちが日常で「自由」と呼んでいるものは、本当に自由なのだろうか。
店に並ぶ卵を「安い」と感じること。そして、それを「買うかどうか」を選ぶこと。
たしかに、これは自由な選択のように見える。
しかしその選択は、価格、市場、貨幣、法律といった社会の枠組みの内部でのみ成立している。
仮にその枠組みを無視して卵を持ち去れば、それは「窃盗」と呼ばれ、罰が与えられる。
つまり、私たちの自由は常に社会構造の内部で行使される。
そこから逸脱した瞬間、それは「自由」ではなく「違反」へと転化する。
言い換えれば、現代における「自由な選択」とは、不自由の上に成立している。
そして、その逆は存在しない。少なくとも私たちの社会においては、自由は不自由からしか生まれない。
人が完全に社会から切り離されて生きることは、ほとんど不可能である。
たとえ「自由気ままな旅人」であっても、それは異なる社会のあいだを移動しているにすぎない。
社会の外には「別の社会」があり、それすら拒んだ先にあるのは孤立である。
自由とは、社会が生み出す制約や不自由を理解し、それを引き受けながら生きることである。
それこそが、現代において私たちが持ちうる自由のかたちなのかもしれない。
「不自由を常と思えば不足なし」――徳川家康の言葉ニャ。
免責事項
本記事は、哲学的・概念的な考察を目的としたものです。
特定の価値観や行動を推奨・指示するものではありません。
内容は、書籍や思想、筆者自身の解釈に基づく一つの視点として提示しています。
最終的な判断や受け取り方については、ご自身の価値観や状況に照らし合わせたうえでお読みください。
参考文献
【夜と霧(新版)】
ヴィクトール・E・フランクル(著)池田香代子(訳)みすず書房:2002年
【サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福】
ユヴァル・ノア・ハラリ(著)柴田裕之(訳)河出書房新社:2016年
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