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内向型が、無理せず「自分らしさ」を取り戻すための自己心理メディア

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内向型ラボの研究所

いじめや不登校を経験しました。
そのなかで人付き合いに慎重な「人見知りの内向型」として成長してきました。

長いあいだ「生きづらさ」を感じてきましたが、少しずつ過去を受け入れ、いまは自分らしいペースで前を向いています。

このブログ 【内向型ラボ ― わたしらしく生きるための自己心理メディア】 は、内向型が無理をせず安心して暮らすための工夫や考え方を、私自身の体験や心理学・科学の知見とともにまとめた場所です。

同じように悩む方にとって日々の中で小さな幸せを見つけるきっかけになれば嬉しいです。

運営者の学びと資格

介護福祉士(2024年取得)
介護士として5年間現場に従事し、人の心や生活に寄り添う経験を積みました。
こころ検定2級(2025年取得)
心理学の基礎から応用まで体系的に学び、心の健康に関する理解を深めました。

ニーチェの哲学|「救われない世界」で救済を拒む生き方

山の上で一人思索に沈む人物のシルエット。孤独と内省を象徴する抽象的な風景。

あなたは、今とまったく同じ人生が永遠に繰り返されるとしたら、それを肯定できるだろうか。

スピリチュアルでも、輪廻転生の話でもない。これはあくまで思考実験の例え話だ。

もし「全く同じ人生」が無限に繰り返されるとしたら、救いは「今」を肯定し続けることにしかない。

人生の終わりに、心から「これが生きるということだったのか。よし!じゃあ、もう一度!」と叫べるように。

クロ

「永遠回帰」の解釈のひとつだニャ。

19世紀に生きたフリードリヒ・ニーチェは、生を肯定するために一生をかけた哲学者である。

ニーチェは、キリスト教的な道徳や倫理観、そして弱者中心の価値観を徹底的に否定した人物。

彼の主著『ツァラトゥストラ』は、新しい価値観を人類に示すことを目的として書かれた。

この記事では、ニーチェの哲学を私なりの解釈でひもときながら、日常でどのように活かせるのかを考えていく。

目次

ニーチェ哲学の重要なワード

まずは、ニーチェを理解するための前提となる言葉を整理していこう。

彼が目指したのは、単なる道徳への反抗ではなく「価値の転換」である。

ニヒリズム|価値が消えた世界

彼のもっとも有名な言葉のひとつに「神は死んだ」という表現がある。

しかし、この言葉は宗教家だけに向けられたものではない。

彼にとって「神」とは、社会や他者が提供する、既存の善悪・道徳・倫理の総体を指している。

なぜなら人は、神のような「価値の提供者」に従うことで日常生活や意思決定を成り立たせてきたからだ。

ニーチェの言う「神」とは、私たちに価値を与える存在そのものである。

当然ながら、それは他者の価値観を借りているにすぎず、自分の内側から生まれた価値観ではない。

ある日ふと「みんなの言う正しさって、なんだ?」と疑問を抱く瞬間が訪れるかもしれない。

疑い続けた結果、信じていた価値が自分の内側から崩れ落ちてしまう。これがニヒリズムである。1

価値のない世界

天国が存在しないのなら、生きる意味はあるのか?

救いがないとしたら、今の苦しい人生は何を意味するのか?

善や悪、正義や悪意には、果たして意味があるのか?

このニヒリズムは、信じている「価値の提供者」が強大であるほど、その反動も大きくなる。

だからこそ、「神の救い」という幻想を人々に押し付けてきたキリスト教を、ニーチェは徹底的に批判した

クロ

宗教をタランチュラ扱いしてたニャ…

力への意志|自己を克服していく存在

では、ニヒリズムに陥らないために、私たちはどうすればいいのか。

答えはシンプルだ。自分で、自分だけの、自分のための価値をつくり、世界を解釈する。

たとえば、哲学や科学が追い求める「真理」や「本質」は、結局のところ、ひとつの解釈にすぎない。

これまでの哲学者が提示してきた真理も「その人にとって都合のいい真理にすぎない」と、ニーチェは糾弾する。

絶対的な価値観など、最初から存在しない。あるのは「個々の解釈」だけである。

そして、人が生きるうえで、歴史や文明、本能を手がかりにしてニーチェが提示した概念が「力への意志」だ。

力への意志

拡張、支配、増大、解釈、評価、意味付け。

自己を高めるために「もっと知りたい」「もっと強くなりたい」と欲する、本能的な「力」への衝動。

ニーチェに言わせれば、欲望を否定する思想や、禁欲を価値とする態度は、生そのものを否定する価値の創造である。

すなわち、力への意志が反転した、虚無への意志と解釈することができる。

超人|高貴な存在への道

「すべての価値観が解釈にすぎないのであれば、神も、意志も、どちらも同じ解釈ではないのか」

たしかにその通りである。しかし、ニーチェが提示した「超人」の生き方とは方向性が異なる

超人とは、自らの欲求を引き受け、苦難から逃げず、自己を克服しながら「乗り超え続ける能動的な存在」だ。

一方で、価値の提供者たる神は弱者に同情し「論理をこねくり回して」無条件に肯定する。

強欲で残忍な者、他者に配慮しない者は「悪」である。

そして、その「悪」の反対側に立つ私は、逆説的に「善」となる。

同情された人間は、やがて「救済を待つだけの受動的な存在」へと変わっていく。

しかし、壊れない価値観なんて存在しない。「苦労しても救われない」ことに、人は気付く。

ニーチェは、すべての価値観が崩れ落ちる瞬間を「大いなる正午」と表現した。

たとえ普通の人が「大いなる正午」を経験したとしても、新たな救済を与えてくれそうな「別の偶像」にすがりつく。

現代的に言い換えれば、「今」を否定してまだ見ぬ「未来」という偶像に救いを求める態度である。

今は苦しいけど、きっと幸せになれるはず

今はなにもないけど、きっと満たされるはず

新しい偶像を求めることができず、超人への道も見つからずに停滞すると、人は「虚無への意志」を抱く。

さらに、虚無への意志すら抱けず、ただ生の安楽を求める者を、ニーチェは「最後の人間」と呼んだ。

クロ

いわゆる「末人」ニャ。

力への意志を、ありのまま引き受け、能動的に動かし続ける存在が超人である。

力への意志を、消極的かつ受動的に受け入れ、結果として現れるのが最後の人間である。

力への意志を能動的に体現した存在として、ニーチェ自身が挙げた「理想の人物像」を見ると、より明確になる。

ニーチェが挙げた理想の人物像

征服者:アレキサンドロス大王

統治者:ユリウス・カエサル

享楽神:ディオニュソス

戦争狂:ナポレオン・ボナパルト

彼らは、善悪という枠組みに縛られることなく「やりたいからやる」という意志を生涯貫いた存在といえる。

皇帝になったナポレオンが非難された事実は、彼の意志と、民衆が期待した「救済者像」とのズレを象徴している。

永遠回帰|よし!じゃあ、もう一度!

ニーチェ哲学の中でも、とりわけ理解が難しいのが「永遠回帰」の思想である。

一般的には「もし永遠に同じ人生が繰り返されるとしたら、その人生を心から肯定できるだろうか」

という問いとして語られることが多い。

しかし重要なのは、ニーチェが永遠回帰によって「何かを説明しようとしたわけではない」という点である。

主著『ツァラトゥストラ』に描かれる永遠回帰も、明確な答えを示さず、抽象的な問いだけを読者に投げかける。

若い羊飼いが、喉を詰まらせ、痙攣し、顔を歪めている。

口からは、黒くて重い蛇が垂れ下がっていた。

「頭を! 噛み切るんだ!」

――彼は噛み切った。蛇の頭を吐き出し、そして飛び起きた。

もはや羊飼いではなかった。もはや人間でもなかった。変身し、光に包まれていた。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部

勇気は最高の殺し屋だ。勇気は攻撃する。死をも撃ち殺してくれる。勇気はこう言うからだ。

「これが、生きるということだったのか。よし!じゃあ、もう一度!」

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部

これを読んでも、何を言っているのか分からないと感じるのが自然だろう。

ニーチェの著書の中でも『ツァラトゥストラ』は、読者の解釈にゆだねる預言書のような性質を持っている。

私自身は、永遠回帰を「この瞬間の苦しみを、今すぐ自分の力で噛み切れ」とする呼びかけとして受け取っている。

そして「永遠に繰り返したいと願える喜びを生きよ」という意味だと解釈している。

虚無への意志を抱く者や最後の人間は、今この瞬間を肯定できるのか、とニーチェは私たちに問いかける。

喜びは、あらゆるものが永遠であることを欲する。深い、深い永遠を欲する。

――おお、永遠よ、俺はお前を愛しているのだから!

つまり永遠回帰とは、今この瞬間を肯定できるかどうかを問う思想である。

その答えは、個人の意志に委ねられている。

あなたの「正義」は誰のものか

あなたが「正しい」と信じている物事について、少し立ち止まって考えてみてほしい。

その正しさは、どこからやってきたものだろうか。

猛禽と小羊|強さを「悪」と呼ぶ人々

ニーチェは、キリスト教的な善悪の価値観を説明するために、「猛禽と小羊」という寓話を用いている。

小羊:「力を振るう猛禽は『悪』だ。弱く従順な私は『善』であるはずだ」

猛禽:「善悪なんて考えていない。ただ空腹だから狩るだけだ」

小羊:「なぜ『善』である私が苦しまねばならない。力ある者は裁かれるべきだ」

猛禽:「裁くも何もない。ただ自分の力のままに生きているだけだ」

この寓話が示しているのは、善悪の価値観が、まず「悪」を定義することから始まったという逆説である。

善悪という枠組みを外して見れば、小羊はただ、自分を食べる猛禽を恐れ、その恐怖の対象を憎んでいるにすぎない。

だが小羊は、その恐怖をそのまま引き受けることができない。

だから「あいつが悪い」「自分は正しい」と語ることで、価値判断を通して自分自身を肯定しようとする。

一方で、猛禽の側には、そもそも善悪という価値判断が存在しない。

ただ力があり、小羊がおいしいから食べる。それ以上でも以下でもない。

小羊がいくら「善」や「正義」を主張しても現実は変わらない。

あるのは、自分が「食べられる存在」であるという事実だけだ。

だからこそ小羊は、「自分が死んだあと、いつか神が『悪』を裁いてくれる」という未来に希望を託す。

しかし、それでも耐えられない。そこで小羊は、自らの無力さを正当化するために、さらに論理を弄る。

「神の寵愛を受けられないあなたを、私が許してあげましょう。さあ、食べなさい」

このような、無力さから生まれた価値判断の体系を、ニーチェは「奴隷の道徳」と呼んだ。

弱者が生き残るための武器

小羊の恨み。ルサンチマン的な「奴隷の道徳」は、形を変えながら現代にも生き続けているとニーチェは指摘する。

隣人愛:喜びを他者に「与える」という意志。相手を自分に依存させ、管理可能な存在へと変える

同情:他者を自分と比較し「自分より不幸な存在」として位置づけることで、相手より優位に立つ

隣人愛や同情は、一見すると「相手を思いやる利他的な行為」に見える。

しかしニーチェは、そこに与える側と与えられる側という上下関係を見ていた。

「他者の救済」という行為は、相手を自立した存在としてではなく、保護と管理の対象として固定する。

同情に至っては、ニーチェが最も激しく嫌悪した感情であり「超人が最後に乗り越えるべきもの」とされる。

なぜなら同情は、他者の苦しみを真に解消するのではなく、苦しみ続ける関係そのものを温存してしまうからだ。

これらは「弱さを克服する力」ではなく、弱さを正当化し、長期的に保存するための道徳である。

ニーチェが求めたのは、その正反対だった。

超人への道は、自らの力によって立ち、自らの価値を創造し、自らを乗り越えていくことにある。

比較対象は常に強者。尊敬できる相手とだけ競い、噛み破り、自己を高め合え。

だからニーチェは、飼いならされることで得られる安全と、見下すことで得られる安心の両方に警鐘を鳴らした。

貴族の道徳/奴隷の道徳

人間の価値観がルサンチマンによって歪められる以前、人間が本来的に持っている価値判断のあり方。

ニーチェはそれを「貴族の道徳」と呼んだ。

貴族の道徳

自分に対して誠実であり、自身の本能と欲求を肯定する者。

「良い/悪い」を他者ではなく、自分の内側から判断する価値観。

他者を貶めることで自分を正当化する「ルサンチマン的な価値創造」と距離を取るための言葉。

ルサンチマンは、強い者に抑圧された弱い者が、自己満足のために必要とした麻酔薬――

ギリシアの貴族のような強い者たちは、このようなルサンチマン薬を必要としなかった。

フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』解説:中山元

重要なのは、ニーチェが「弱者そのもの」を否定したわけではないという点だ。

彼が否定したのは、弱者であり続けることを正当化し、そこに安住する態度である。

『私たちが幸せをつくりだしたのです』そう言って、最後の人間がまばたきする。

――連中は、生きるのが困難な地域を捨てた。暖かさが必要だからだ。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部

貴族の道徳を持つ者は、自分が小羊の立場にあったとしても、捕食者である猛禽を「悪」と罵ることで自己を慰めたりはしない。

食い殺される運命であったとしても、勇敢に挑み、牙の届く距離まで踏み込み、抗い、食らいつく。

その結果として倒れることになったとしても「逃げ続けるよりは、よほど肯定できる人生だろう」と引き受ける。

ニーチェは、この姿勢を自身の人生によって体現した哲学者でもある。

現在では有名だが、生前はほとんど評価されることのない無名の存在だった。

理解者も名声も得られないまま、宗教という「最大にして尊敬すべき敵」に立ち向かい続けた。

強者とは何か|超人に至る道

では、能動的な「力への意志」を引き受け、貴族の道徳を生きる者――超人にはどうすればなれるだろうか?

実のところ、超人とは結果ではなく「自己を克服していく状態」を指している。

3つの変身|ラクダ・ライオン・子ども

ニーチェは、人間を「自己を克服し続けていく存在」として捉えた。

そして、その過程を象徴的に示すものとして、「3つの変身」を語っている。

3つの変身

ラクダ:傲慢を捨て、成功も捨て、誘惑する悪魔を退ける。あえて苦難や困難を背負い、耐える存在。

ライオン:孤独の砂漠において、「汝なすべし」と命じる龍に対し、「われ欲す」と叫び、否定する存在。

子ども:忘れ、遊び、始める者。車輪のように自ら転がり、今この瞬間を肯定し続ける存在。

ラクダは、苦難や困難を避けない。ひとつを背負い終えたと思えば、次の瞬間には、また別の重荷を引き受けている。

社会は常に「こうあるべきだ」「それが正しい」と価値を押し付けてくる。

そして私たちも、自分の内側から湧き上がる「同情」や「善意」を、偶像として他者に押しつけたくなる。

ライオンはそれらすべてに対して「NO!」を突きつけなければならない。

そして最後に現れるのが子どもだ。否定の先で、自ら価値を創造し、無邪気に遊ぶ存在。

目指すべきなのは、現実から逃避する楽園ではない。

この世界を引き受けたうえで、今を肯定し、何度でも始められる精神である。

ルサンチマンと向き合う

重荷を背負う覚悟が決まり、いざ苦難を引き受けようとする段階にも、ひとつ大きな罠が潜んでいる。

それが、ルサンチマン――恨みや劣等感から生まれた情動かどうかという問題だ。

例えば、ニーチェはキリスト教を激しく批判したが、一方で反ユダヤ主義者を明確に軽蔑している。

ニーチェが提示する良い敵の条件として「誠実」で、「恨み」「同情」をもっていないことが挙げられる。

しかし皮肉なことに、その思想は妹エリザベートによって恣意的に編集され、反ユダヤ主義的な文脈で流通した。

結果として、その歪められた思想はナチスの文脈で利用された。

ナチスが行ったのは、ドイツ人のルサンチマンを徹底的に煽り立てる「選民思想」の注入だ。

敗北、貧困、屈辱――それらを直視する代わりに「自分たちは特別だ」「悪いのは他者だ」と語る。

これはまさに、ニーチェが軽蔑した「自身への同情」から生まれた、比較という名のプロパガンダにほかならない。

敵にするべき相手とは、相手の勝利すら喜べるほど、尊敬できる存在でなければならない。

同情や、下に見た者に対して「間違っている」と断じるとき、それは真理の確認ではない。

自分の「正しさ」を守るための「悪・恨み・劣等感」に変わっていることが多いのだ。

自慢できるような敵しか相手にしない

ニーチェの思想を中途半端に理解すると、「強者は何をしてもいい」といった誤解が生まれやすい。

しかし、それはニーチェの思想とは正反対である。

超人は弱者を責めない。責めない代わりに、相手にもしない。

自分より下の者に対する軽蔑や嘲笑といった振る舞いを、ニーチェは「道化」と呼ぶ。

愛することができなくなったら、通りすぎることだ!

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部

強さの定義が、ルサンチマンや自分の立ち位置を守るための優越感から生まれているのなら、それは論外である。

超人は、自らよりも強い者、あるいは強くなりうる者しか相手にしない。

ツァラトゥストラを否定する

ニーチェ哲学には、きわめて自己批判的で、もっとも面白い部分がある。

彼は「価値の転換」を目指したが、自らの思想そのものが、新たな救済や信仰へと堕してしまう危険性を秘めている。

つまり、ニーチェの哲学を「そのまま実践しよう」とした瞬間、それは既存の価値となり、自己矛盾を起こす。

彼自身も、その危険をはっきりと自覚しており、繰り返し警告を残している。

お前たちは俺を尊敬している。だが、ある日、その尊敬の念が倒れたらどうするのだ?

ツァラトゥストラに、何の価値がある?

――さあ、命令するぞ。俺のことは忘れろ。自分を見つけろ。

フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部 (ツァラトゥストラはニーチェの代弁者)

多くの人と同じ意見をもちたいという悪趣味は、さっぱりと捨てるべきだ。

〈善きもの〉も隣人がそれを口にしてしまったとき、それはもはや善きものではない!

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』四十三:来たるべき哲学者

私たちが「自分の価値」を創造しようとするとき、それは既存の価値の焼き直しであってはならない。

だからこそ、ニーチェの思想を学ぶ者が最後にすべきことは、その思想を「絶対化」することではない。

ニーチェの思想を、もっとも手強い「良い敵」として引き受け、否定し、乗り越えていくことだ。

まとめ|劇薬を薬に変える

ニーチェの思想はそのまま受け取れば、間違いなく劇薬である。

ニーチェは同情を否定し、価値を壊し、孤独を引き受け、さらには「私の思想を否定しろ」と言う。

一歩間違えれば、人を切り捨てるための思想にも、悲観主義を助長する思想にもなり得る。

だが同時に、自分の生を肯定するためのヒントも、過剰なほど詰め込まれている。

社会の価値観を「自分のもの」と錯覚し、受動的に受け入れていないか

苦手な物事に対して、ルサンチマンが引き金になっていないか

自分だけの解釈を、正義として他者に押し付けていないか

都合のいいラベルに、思考停止して甘えてはいないか

今、この瞬間の生を、肯定できているか

私は、ニーチェが軽蔑した「隣人愛」を肯定しているし、超人の価値観もそのまま受け取っていない。

それでもなお、ニーチェの哲学のすべてが無効になるわけではない。

彼の思想は「今この瞬間に、お前は何をしたいのだ?」という問いを、否応なく突きつけてくる。

例えば・・・

炎上した人物、報道された犯罪者に対して「悪への恨み」を抱いてはいないか?

表面的な「悪」を見つけることで、それを断罪し、嫌悪する自分は「善」だと安心してはいないか?

あの人は、どうしてそんなことをしたのだろうか?

哲学的な「自分探し」――それこそが、ニーチェ哲学の本質なのだと私は思っている。

免責事項

私は心理学や医療、哲学の専門家ではなく、診断や助言を行う立場にはありません。

本記事は、フリードリヒ・ニーチェの邦訳を筆者自身の解釈のもとに構成した参考情報です。2

内容を鵜呑みにせず、あくまで自己理解を深めるためのヒントとしてご活用ください。

専門的な判断や緊急時の対応については、ページ下部の相談窓口もあわせてご確認ください。

参考文献

  1. 一般的にニヒリズムは「悲観主義、虚無主義」と理解されるが、ニーチェにおいては「価値が失効した状態」を指す。 ↩︎
  2. 【善悪の彼岸】
    フリードリヒ・ニーチェ(著)中山 元(訳) 光文社古典新訳文庫:2009年
    【道徳の系譜学】
    フリードリヒ・ニーチェ(著)中山 元(訳)光文社古典新訳文庫:2009年
    【ツァラトゥストラ(上・下)】
    フリードリヒ・ニーチェ(著)丘沢静也(訳)光文社古典新訳文庫:2010年 ↩︎
山の上で一人思索に沈む人物のシルエット。孤独と内省を象徴する抽象的な風景。

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