私たちは、家族や友人、恋人にどう向き合えばいいのだろうか。
それぞれ「大切な関係」だと言われるが、同じ「大切さ」なのかと問われると、少し迷ってしまう。
家族・友人・恋人は、よく並べて語られる。
しかし私は、これらを単なる「関係の種類」だとは考えていない。
むしろ、距離の取り方、選び方、縛られ方が違う関係性として見ている。
社会的な関係観に加えて「主観的にどう関わっているか」を考える記事
この記事では厳密な定義よりも、私自身が今、これらの関係をどう捉えているのかという視点を提示したい。
目次
家族とはなにか
まず、家族とはなにか。
私はごくシンプルに、主観的な人間関係における「人生において省略できない存在」が家族だと考えている。
この記事では「省略」を「その人がいなけれ自分を説明できない相手」として扱う。
家族
人生を共にしてきた相手、あるいは共にすると誓った相手
自分の人生から切り離して考えることができない相手(ネガティブな面も含めて)
単純な「好き/嫌い」だけでは関係を説明できない相手
これらに共通しているのは、相手が自分の人生や自己形成に深く組み込まれているという点である。
その意味で家族とは、自分を説明するための主観性において「省略できない」欠かせない存在だと言える。
多くの場合、私たちが人生の初期段階で強い影響を受ける相手は、父親や母親、あるいは育ての親である。
また「人生を共にしている」相手がいれば、その関係も「省略できない他者」として捉える。
このように考えると、家族であるかどうかを決める要因は、結婚という契約や、血縁そのものではなくなる。
どこまでを自分の人生に含めるかという、主観的な判断に回帰する。
友人とはなにか
家族が「人生において省略できない存在」であるならば、友人はどうだろうか。
家族は「好き/嫌い」だけでは語りきれない複雑な関係を形成する。
一方で、友人関係はそうではない。友人かどうかの判断は、常に私たち自身の意志に委ねられているからだ。
では、私たちはどのような相手を「友人」と認識しているのだろうか。
価値観の合う相手、趣味が合う相手、一緒にいて心地よい相手。
本来的には人生から「省略可能」な存在。自分の意志で「省略しない」と決め続けている関係。
言い換えれば友人とは、立場や年齢、性別にかかわらず、上下関係として扱わない相手だと解釈できる。
友人
相手を「垂直的に見ない関係性」
自分の上にも下にも置かず、平行的に捉える関係性
お互いの認識が完全に一致している必要はない関係性
友人関係については、「男女に友情は成立するのか」という問いがよく持ち出される。
この考え方に立つならば、男女に友情は成立する。
相手を恋愛的な対象として見るかどうか、関係にどのような期待を含めているか。
それらは、最終的には主観の問題であり「相手と対等であろうとする」という意志が「友人」である。
たとえ異性としての魅力を感じていたとしても、
相手を上下のない存在として認識したいのであれば、その関係は友人として成立し得る。
ただし、その関係が「良好に」継続するかどうかは、相手の認識にも委ねられる。
相手が自分を友人だと捉えているかどうか、そこに主観的な上下関係があるかどうかを、完全に確かめる術はない。
だからこそ、友人関係は流動的で、壊れやすく、同時に自由でもある。
恋人とはなにか
家族、友人ときて、恋人はどのように定義できるだろうか。
恋人という関係は、人間関係のなかでも比較的はっきりとした意思表示を必要とする。
少なくとも日本においては、告白と同意という手続きを経て成立する関係だ。
ところで実は「恋人」という関係そのものが、世界的に見れば必ずしも一般的とは言えない。
国によっては告白文化が曖昧で、「いつ恋人になるのか」という区分がしにくい場合がある。
その場合、相手は「デートを重ねる相手」や「恋愛感情を含んだ友人」として捉えられることが多い。
この点から考えると、日本と海外では、恋人という関係に対する解釈が異なっている。
恋人
日本では「告白と同意」によって成立する、社会的に承認された関係性
恋愛感情を前提としつつ、友人関係よりも強い拘束を伴う関係性
こう考えると、日本文化における「恋人観」は、やや特殊であるとも言える。
歴史的、社会システム的に見ても「イベントを想起させるために社会が作り出した」ようにも思える。
拘束を伴う関係性
「付き合ってください」という告白は、
「互いに他の恋愛関係を持たないことへの同意」を求める行為だと解釈できる。
これは、他人(省略可能な存在)を、家族(省略できない存在)へと移行させるための「試行期間」だ。
だからこそ、契約(独占の合意)という縛りを用いて「省略できない状態」を作り出している。
他者を主観的に「省略できない存在(家族)」へと格上げしようとする、過渡期のエネルギーの名称。
社会的な契約(告白)はそのエネルギーを固定するための「不自然な」補助輪。
これは日本が良い、海外が良いという優劣の問題ではない。
結婚もまた、主観ではなく客観、社会的な契約によって関係を明確化する制度である。
恋人や結婚という「独占」が前提に置かれるからこそ、浮気や不貞といった概念が生まれる。
だとすれば、「付き合う前が一番楽しい」という言葉も「自由が失われていない状態への高揚」と解釈ができる。
まとめ
家族:主観的に切り離せない存在(省略できない相手)
友人:上下を置かない意志(省略できるが、省略を選ばない)
恋人:(省略できない存在にしたい)という欲望と契約という補助輪
ここまで、家族・友人・恋人をそれぞれ定義してきた。
これらは厳密な分類ではなく、人間関係を考えるための「視点」として、あえて単純化したものだ。
(そのため、師弟や地位、ペットとの関係、可逆性や責任、物語共有の有無などは省いている)
私たちは人間関係の中で、社会構造で生まれた「客観的な価値」を無自覚に信じすぎていないだろうか。
哲学には、社会や文化の構造が人格や価値観を形づくる、という考え方がある。
18世紀の哲学者ルソーは、そうした社会的価値から距離を取った「自然人」という理想を示した。
自然人
社会的な評価や比較から離れ、自己保存の欲求と同情心のみに従って生きる、孤独で自由な人間のあり方。
しかし、私たちは理想としての自然人にはなれない。
承認欲求や帰属意識、独占したい感情を抱えたまま、社会の中で生きている。
私が示した友人関係の「お互いを上下ではなく対等に見る」ことも、極めて難しい理想論である。
おそらくほとんどの人は、経験と感情に任せて「友達か否か」を考えている。
人によって生まれや育ちは異なる。性質は人の数だけある。
性質から生まれる感情は理性を従えることもある。その人の感情が相手を対等に見ることを許さないかもしれない。
故に「理想の関係性における他者の答え」を自分に当てはめることは不可能に近い。
「他者の正解」は、自分の正解にはなりえない。
他者の価値を自分に当てはめても、現実と他者との摩擦で瓦解していく。
人間関係には、あらかじめ用意された正解は存在しない。
なら私たちは、社会から与えられた関係性の枠に終わらず、自分だけの「正解」を探し続けるべきではないだろうか?
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