孤独は、数値化が可能なハードサイエンスの領域である。
なぜなら、人は生物学的に孤独に適応できるようには作られていないからだ。
孤独研究家のジョン・カシオポ博士によると、人は「つながりを求める準備」をしているのが普通であるという。
また、孤独の裏には「数えきれない体への悪影響」があると警鐘をならしている。
孤独は氷山のようなものだ。
目に見える部分に意識を向けがちだが、その下には膨大な領域が眠っている。
その領域は進化の過程上とても深いところにあるため、目にすることができない。1
ジョン・カシオポ
では「孤独は避けるべき状態」だとすれば、私たち内向型は「1人の時間」にどう向き合えばいいのだろうか?
✅この記事で分かること
- 孤独が「性格」や「感情」ではなく、生物学・進化論に根ざした現象である理由
- ニーチェの思想とその最期から読み解く、孤独が持つ破壊性と創造性の両面
- ダンバー数を手がかりにした、孤独感に飲み込まれない人間関係の距離設計
目次
生物学|なぜ「つながり」を求めるのか
心理学者のウィリアム・フォン・ヒッペル博士によれば、私たち人間の初期設定は「人とつながること」にある。
つながりは「生存戦略」の前提条件
私たちは、なぜつながりを求めるのだろうか。
それは、人類の社会的な進化が、身体的な進化と切り離せない関係にあるからだ。
人は感情的な共通認識を形成するように、ひとりでいることを不快に感じるよう進化してきた。
ウィリアム・フォン・ヒッペル(ヴィヴェック・H・マーシー『孤独の本質 つながりの力』より)
数万年も前、人類は例外なく集団でサバンナに生きていた。
科学技術は存在せず、昼夜を問わずオオカミやサーベルタイガーといった捕食者の脅威にさらされていた。
そのような環境では、野生動物に襲われた際に協力して対処できるかどうかが、生存確率を大きく左右する。
飢えへの対処や繁殖においても同様だ。協力したほうが、個体としても種としても生き残る可能性は高まる。
こうした環境圧のもとで、社会的に協力し合う設計が形成されたのは、進化論的に見ても自然な帰結だろう。
進化論における孤独
「独りでいては、捕食者に対して無力であり、飢えにも繁殖にも耐えられない」という生存上の警告。
主役は「利己的な遺伝子」である
チャールズ・ダーウィンの『種の起源』から始まった進化論は、多くの知見を取り込みながら発展してきた。
そして約50年前には「進化の主役は種や個体ではなく〈遺伝子〉である」という視点が提示された。
この考えを広く知らしめたのが、進化生物学者リチャード・ドーキンスである。2
彼は、人間を含む生物は「遺伝子の乗り物」にすぎないと表現した。
この理論に従えば、私たちの行動の背後には「遺伝子がより効率的に複製される環境」を選択する圧力が存在する。
これは、遺伝子の存続に資するのであれば、生物の行動は利己的にも利他的にもなりうることを示している。
たとえば社会性昆虫では、個体の自己犠牲が女王の繁殖成功を支えている。
つまり、私たち人類には「協力と共存は生存戦略につながる」と遺伝子に刻まれている可能性がある。
ただし現代の人間には、避妊や独身といった選択肢があり、遺伝子に完全に支配されているわけではない。
それでも「数万年にわたる進化の履歴」という視点に立てば、話は変わってくる。
私たちの心や行動傾向が、そのような設計を前提として形づくられてきたとしても、不自然ではない。
利己的な遺伝子
リチャード・ドーキンスは、生命の本質を「遺伝子を未来へ運ぶための合理的な生体システム」と捉えた。
社会の期待と心理的孤独
では、「孤独」は実際にどのような形で私たちに現れるのだろうか。
孤独のペルソナと「心の痛み」
孤独はさまざまな仮面をかぶっている。怒り、疎外感、悲しみなど、多くの感情的苦痛として表れる。
ヴィヴェック・H・マーシー『孤独の本質 つながりの力』
元アメリカ公衆衛生局長官のマーシーは、私たちが孤独を感じる要因の1つとして「環境や育ち」を挙げている。3
また、本人自身が孤独の原因に気付いていない可能性も指摘している。
氷山の下に眠る「見えない孤独」
カシオポ博士やマーシーが指摘するように、孤独感の本質は目に見えない部分にある。
あなたは、暴力と同じように、暴言によって人が傷つくことを知っているだろう。
そしてそれは、他者から拒絶されたときにも同様である。
「拒絶されると、身体が痛む」のだ。
また、心の痛みと身体の痛みは、脳内では非常によく似た形で処理されることも分かっている。
ヴィヴェック・H・マーシー『孤独の本質 つながりの力』
すなわち、暴力も暴言を排斥も、本質的には連続線上にあるといえる。
孤独が招く「脳の防衛本能」のループ
マーシーは、私たちが孤独を感じていると、次第に「人に近づかない」行動を選ぶようになると指摘している。
それは、人が「社会からのけ者にされている存在」というラベルを貼られることを恐れているからだ。
こうした恥じる気持ちと恐れが絡み合い、孤独から抜け出せなくなっていく。
ヴィヴェック・H・マーシー『孤独の本質 つながりの力』
所属欲求を満たしたいにもかかわらず、その所属欲求そのものが、人とつながる行動を妨げてしまう。
その結果、人は次第に自分自身を見失い、自尊心を低下させていく。
そして、助けを求めることすらためらうようになる。
しかし、この仕組みを理解した今、その状態を悲観的に見る必要はない。
これはあなたの性格の問題ではなく、脳が省エネ・自己防衛モードに入っているだけである。
ある意味、私たちの脳は「あらゆる外敵から私たちを守る騎士」なのだ。
ニーチェが孤独の果てに見た景色
現代の「実存哲学」という学問に大きな影響を与えた、フリードリッヒ・ニーチェという哲学者がいる。
ここではニーチェを、孤独を語る上での「極端な例」として挙げたい。
「神は死んだ」「深淵を覗き込むとき」という格言で有名だニャ。
強靭な意志と創造の哲学者
ニーチェは19世紀ドイツの哲学者だ。
それまでの哲学では、「真理・生・本質とはなにか」といった抽象的概念の探求が主流だった。
ニーチェは、その「真理を追い求める哲学」と距離を取り、「現実に存在する人間」に目を向ける。
神の存在、宗教や道徳、さらには科学ですら「人間による解釈の産物である」と考えたのだ。
彼はその立場から、キリスト教的価値観や道徳、伝統的な哲学に対し、強烈な意志の力をもって立ち向かった。
「悪人」というものを考え出したのは、ルサンチマンの人間なのである。
その模造として、対照的な像として「善人」なるものを考え出したのである。4
フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜論』
ニーチェの求めた真理は「力への意志」にある。
これは他者との比較ではなく、個人が自らのために抱く根源的な渇望を指している。
しかし、個人の内面だけに根ざした解釈や信念は、共感が重視される社会には共有されにくい。
哲学者ショーペンハウアーも、大衆向けの読みやすい書物を出版するまで見向きもされていない。
その苛烈な思想は民衆に受け入れられず、出版した本の数々はまったく売れなかった。
馬に縋りついた理由を考察する
ニーチェは晩年『この人を見よ』を書き上げて間もなく、
トリノで鞭に打たれる馬に泣いて縋りつき、その後、正気を取り戻すことはなかったと伝えられている。
この「泣いて縋る」という行為は、自身が掲げてきた「力への意志」とは真逆とも言える同情的な行為だ。
私はこの出来事を、ニーチェ自身の強い孤立性と切り離して考えることはできないのではないかと思っている。
性差別的な発言、キリスト教への徹底的な攻撃、そして既存の道徳そのものを嘲笑する論調。
さらにニーチェは、過去の哲学者や学者を名指しで軽蔑し、切り捨てることをためらわなかった。
その姿は、まさに「孤軍奮闘」を体現した哲学者だったと言える。
最期の著書『この人を見よ』は、ニーチェ自身によるニーチェ入門とも言える1冊である。5
しかしその内容は「なぜ私は優れた文章を書くのか」といった、自己愛に満ちた言葉で埋め尽くされている。
それはまるで「誰か私を見つけてくれ」と叫んでいるかのようだ。
「強靭な意志」と「孤独感」がせめぎ合った末に生まれた書物こそが『この人を見よ』なのではないだろうか。
絶対的な孤独は、意志の力を覆す
これはあくまで、研究家でも何でもない一人の読者の「解釈」にすぎない。
ニーチェがなぜあのような結末を迎えたのかについて、確かな答えは今も分かっていない。
しかし、強靭に見えた意志の力が、長く続いた孤独によって消耗していったという解釈は、不自然ではない。
この見方に立つなら、どれほど強い意志を持っていたとしても、人は孤独から完全に自由ではいられない。
そんな現実が浮かび上がってくる。
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人間関係の「質」を見極める
では、私たちは「どのように」孤独と向き合えばよいのだろうか。
その答えは、自分にとっての「最適な関係性」を見極めることにある。
ダンバー数:内円・中間円・外円
ダンバー数という考え方をご存じだろうか。
これは、イギリスの進化心理学者ロビン・ダンバーが提唱した「人間関係の限界を示す」理論である。
ダンバー数
人は、認知的・感情的に意味のある関係を無制限に保てるわけではない。
ダンバーは、その上限を約150人とし、関係の深さによっていくつかの層に分かれると考えた。
マーシーは、この理論をより「孤独」というテーマに焦点化し、人間関係を「3つのサークル」として整理している。
インナーサークル・親密圏:深くつながった家族や親しい友人
ミドルサークル・関係圏:友人や、時々顔を合わせる人
アウターサークル・集団圏:職場の仲間や知人
進化の観点から見ると、人間は関係に使うエネルギーの約60%を、インナーサークルに費やすとされている。
そして、このインナーサークルは「5人」を超えることはめったになく、最大でも15人ほどに限られるという。
各サークルへのリソース配分
言うまでもないが、インナーサークルに60%、ミドルとアウターに40%という配分は、人によって異なる。
それでも、「家族や親しい友人が、その他の関係性を上回る比重を持つ」という点は、注目すべき結果である。
では、ミドルサークルやアウターサークルは大切にしなくてもよいのだろうか。もちろん、そうではない。
アメリカの調査会社ギャラップによれば、人のウェルビーイングは、5つの領域から成り立っている。6
Career(キャリア):日々取り組んでいる活動に、意味や満足を感じているか。
Social(ソーシャル):人生において、支え合える人間関係や愛情があるか。
Financial(フィナンシャル):経済的な生活を、適切に管理できているか。
Physical(フィジカル):日常を送るための、十分な健康とエネルギーがあるか。
Community(コミュニティ):住んでいる地域と関わり、帰属意識や誇りを感じられているか。
この指標に照らし合わせると、インナーサークルは主にSocial(ソーシャル)の領域に関わる。
一方で、ミドルサークルやアウターサークルは、Community(コミュニティ)の側面を支えていると考えられる。
ギャラップの枠組みに従えば、人間関係のすべてが、何らかの形でウェルビーイングに寄与していると言える。
結論はシンプルだ。すべての他者を、軽んじてはならない。
そのためには、自分にとって最適なリソース配分を自覚する必要がある。
孤独感(Loneliness)と孤高(Solitude)
しかし、孤独そのものの価値についても、考えるべき点は多い。
古今東西の哲学者や文人の中には、孤独を「人間の本質の一側面」と捉えてきた者も少なくない。
また、脳の健康を研究する国際機関に属するジェームズ・グッドウィン教授は、孤独に対して警鐘を鳴らしている。
ただ同時に、「孤独」と「孤独感」を明確に区別して捉える必要があるとも指摘している。
つまり、孤独感(Loneliness)と孤高(Solitude)は、切り分けて考えることができるのだ。
ひとりで過ごすことと、孤独感には関連がない。7
ジェームズ・グッドウィン『最強脳のつくり方大全』
だからこそ私たちは、「たどり着いた先の孤独」ではなく、「自ら選んだ先の孤独」を区別する必要がある。
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まとめ:孤独を力に変えて生きるために
孤独は、単なる感情や性格の問題だけでなく、生物学・進化論・哲学といった複数の視点から捉えることができる。
それは避けるべき「欠陥」ではなく、人間の設計そのものに深く根ざした現象である。
そして孤独は、向き合い方次第で破壊力にも、思考や創造の源泉にもなりうる。
重要なのは、孤独感に飲み込まれることなく、自分にとって最適な人間関係の質と距離を見極めることだ。
自ら選び取った孤独と、他者との適切な距離感を理解しながら生きることが、孤独を力へと変える鍵になる。
✅ この記事のまとめ
- 孤独は感情だけでなく、生物学・進化・脳の仕組みに根ざした現象である
- 人は本能的に「つながり」を求めるが、孤独感は行動次第で悪循環を生む
- 重要なのは人間関係の量ではなく、自分に合った「質」と距離感を見極めること
- 孤独感と孤高は別物であり、選び取った孤独は思考と創造の力になりうる
免責事項
私は心理学や医療の専門家ではなく、診断や助言を行う立場にはありません。
本記事は研究や書籍、筆者の経験をもとにした参考情報です。
内容を鵜呑みにせず、必ずご自身の状況や体調と照らし合わせてお読みください。
もし違和感や不安がある場合は、公認心理師や臨床心理士などの専門家への相談もご検討ください。
具体的な相談先については、ページ下部の相談窓口にも詳しくまとめています。
参考文献
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