小説を理解するのに、本当に必要なのは「語彙力」ではない。
では、必要なのは作者の心理を推察する力だろうか。あるいは、読解力や想像力だろうか。
たとえば、日本文学を代表する太宰治は、劣等感を抱え続けた人生が作風に影響していると言われている。
確かに太宰治の作品を理解するうえで、彼の人生を知ることは重要だろう。
しかし、趣味で行う文学読解に、太宰の「前期・中期・後期」といった整理は必要だろうか?
作者の人生を知らなくても、言葉や文章には、言語的構造から理解できる「作者の機微」があるのではないか?
つまり、日本語の構造を理解すれば、文章の構造そのものから人物の心象を想像できるのではないか?
むしろ、すでに語られている「作家の人生」を前提にしてしまうと、先入観のレンズを通して作品を読むことになる。
この意味で、小説を理解するのに必要なのは単なる読解力ではない。日本語の構造を理解することだ。
それも、構造を理解するのに必要なのは、古文読解の練習として教えられる国語文法ではない。
学ぶべきは、外国人が学ぶ「日本語文法」である。
日本人は日本語を「感覚」で使っている。しかし外国人は、日本語を構造として学ぶ。
つまり、外国人向けの日本語文法は、日本語を「解剖図」として示してくれるのである。
すなわち、すでに書かれている文章から日本語の構造を分析する、いわば現象学的なアプローチだ。
この記事では、小説を読み解くことと日本語文法の関連性について考えていきたい。
目次
日本語は主語より「状況」を語る
日本人は小学生の頃から、国語の授業で「日本語は主語と述語を中心に構成されている」と教えられる。
しかし、その実態は「述語を中心にした成分で構成されており、主語は必ずしも必要としない言語」である。
「日本語には主語があるのか」という問題については、さまざまな学説がある。
日本語は主語中心の言語ではないとする研究も多く、日本語文法の重要なテーマの一つになっている。
この記事では「主語省略」を中心に解説する。
「空は青い」の主語はどれか?
次の文章の主語はどれか分かるだろうか?
空は青い
一般に主語とは、その文章における動作や状態の主体を表す言葉である。
しかし、この「空は青い」という文には、動作や状態の主体がはっきり存在しない。
助詞〈は〉は文章のテーマ(主題)を提示する助詞である。つまり、この文章は次の構造になっている。
空は(主題・テーマの提示)+青い(述語・テーマの解説)
日本語では主語が〈が〉で示されることが多い。つまり、主語が明示されているとは言いにくい構造になっている。
助詞〈が〉を主語にすることもできるが、そうすると次の文章が説明できなくなる(と説明する学説がある)
象は鼻が長い
これは言語学者の三上章が提唱した「主語廃止論」を説明する際によく使われる例文である。
日本人にはごく自然な文章だが、英語と比較すると日本語の性質がよく分かる。
英語: Elephants have long noses.(象が主語。象が鼻を持っている)
日本語: 象は、鼻が長い(「鼻が長い」という状態が、象というテーマのもとで語られている)
もしくは、象は(大きな主題)鼻が(小さな主語)長い(述語)となる。
英語は主語と動詞の存在を強く要求する言語である。(誰が+どうした:SV)
しかし、日本語では必ずしもそれを必要としない。人や物と状態を、厳密に切り分けないからだ。
分かりやすく言うと、日本語では「象が鼻を所有している」という感覚ではない。
「象という場において、鼻が長いという状態が語られている」というニュアンスである。
例えば、目の前に象がいて「鼻が長いね」と言えば、それが象のことだと誰でも理解できる。
だから日本語では、わざわざ主語を明示する必要がない。
英語で「Long nose」って言われても「Why?」って返ってくるニャ。
「象は鼻が長い」が示す日本語の構造
上記の「空は青い」や「象は鼻が長い」の構成を聞いても、良く分からない人がいるかもしれない。
しかし、この日本語の構成は一言で説明できるのだ。
日本語は「誰がしたか」より「そこで何が起きているか」を語る言語である。
英語はチェスを動かすように言語を操るが、日本語は「場の共有」で言語を操る。
たとえば英語は、主語を使わない文章でも訳さない仮主語「It is」や「There is / There are」を使うことがある。
日本語では仮主語を使う必要がない。「今日はいつもよりも暑いね」だったら「暑いね」で通じる。
なぜなら、場の感覚を共有している(と思っている)から説明する必要がないのだ。
私は場(自然)の一部であり、あなたも場(自然)の一部である。
英語と日本語
英語(視点優位): I see a bird.(私という視点を固定する)(It is) rainy. (雨だね)
日本語(状況優位): 鳥がいる。 / 鳥が見える。(状況そのものを描写する)
感覚の共有が前提のため「察する・文脈で判断する」を相手に強要することもある。(古文は特に)
悪く言えば「責任を曖昧にさせやすい」言語でもあるニャ。
上記の理由から、日本語の表現には話し手と聞き手が状況を共有していることを前提にしたものが多い。
しかし、ここで誤解してはいけない。
私は「だから日本人は調和を重視する国民性がある」といった文化本質主義を言うつもりはない。
実際、言語は固定されたものではない。表現する言葉を当て字や造語、外来語でいくらでも拡張できるのだ。
なぜ「述語」が日本語の王様なのか?
先ほど、日本語は「主語が省略されやすい」「場を中心とする言語」であると説明した。
しかし、主題を説明する述語は欠かせない。
言い換えれば、述語さえあれば、日本語はなんとなく意味が通じてしまう。
東京と山口さんでレストランとランチと食べた。
支離滅裂な文章ではあるものの、山口さんが東京のレストランでランチを食べたのだろう、となんとなく想像できる。
しかし「食べた」という述語がなければ、意味はたちまち霧散する。
東京と山口さんでレストランとランチと
山口さんが何をしたのか、これではまったく分からない。
このように、日本語の文章は述語を中心として、その周囲に主題や成分が配置される構造になっている。
言い換えれば、日本語では述語が「王様」であり、それ以外の言葉はその周囲に集まる要素だと言える。
述語は、すなわち「場の動き」を表現する言葉である。
だからこそ、同じ場を共有するために、述語は欠かせない働きをしているのだ。
若者言葉(バズる・タピる)は正しい日本語なのか?
現代の日本では、「タピる」「エモい」「ググる」「バズる」などの若者言葉が次々と生まれている。
「言葉が乱れている」という声も聞かれるが、構造的に見ると、実はまったく乱れていない。
それどころか、古語の時代から使われてきた日本語の仕組みと同じ構造である。
タピる:タピオカ(名詞)+「る(動詞化)」=タピオカを飲む・買う
エモい:エモーショナル(語幹)+「い(形容詞化)」=場がエモーショナルな状態
物詣で(ものもうで):物(名詞)+詣で(動詞)=神社仏閣へ参詣する
このように、日本語では述語が中心となり、他の成分を内包する形で新しい言葉が作られていく。
つまり若者言葉も、日本語の構造から見れば自然な言葉の変化なのである。
また、いわゆる「ら抜き言葉」も、言語の歴史という観点から見ると必ずしも不自然とは言えない。
たとえば英語でも「I am」は「I’m」と短縮される。言葉は常に、使われる中で効率化されていくからだ。
述語から見える日本語の世界観
日本語は述語を中心に組み立てられる言語である。
しかし、その述語に何を添えるかによって、意味やニュアンス、そして話し手の思いまでもが大きく変わる。
英語と日本語の自動詞・他動詞の考え方
英語では、自動詞は「それだけで意味が完結する動詞」、他動詞は「目的語を必要とする動詞」である。
しかしどちらの場合でも、英語の文は主語を中心に組み立てられる。
つまり、誰が何をしたのかという「主体の動き」が常に中心にある主語中心言語といえる。
一方、日本語は少し違う。日本語では文の話題や状況(場)が中心に置かれることが多い。
言い換えれば、英語は「人や物」から矢印が伸びる言語だが、日本語では「場」から現象が立ち上がる。
英語
英語: I enjoyed the movie.
英語: I have a headache.
- 構造:私は頭痛を「持っている」→状態も主語の所有物として表現される
英語では、痛みや感情のような目に見えない状態さえも「主語に属するもの」として表現されることが多い
しかし、日本語ではその感覚が少し違う。
日本語では、文の中心は述語であり、何が起きているかという「出来事」そのものが文の核になる。
さらに言えば、日本語のあらゆる出来事は「場の中で起きる現象」として捉えられることが多いのだ。
そのため、日本語の自動詞と他動詞は「場に働きかけているかどうか」という視点で理解すると分かりやすい。
日本語
お湯が沸く:お湯という場に「沸く」という現象が起きている(自動詞的)
お湯を沸かす:お湯という場に対して「誰か」が働きかけている(他動詞的)
(私が)お湯を沸かす=お湯という場に変化が起きることが文の中心(動作主は省略されやすい)
英語が「誰が何をしたのか」を問い続けるのに対し、日本語は「その場で何が起きているか」を見つめる。
日本人の言語マジック
「この場で何が起きているか」を重視する日本語には、場を調和させるための言語的な働きが存在する。
それを代表するのが「やりもらい動詞」と「敬語」である。
やりもらい動詞
文章の語尾に使用する、思いやりを込めた言葉(あげる・くれる・もらう)
・勉強を教えて「もらった」:教えるという行為に対して、感謝という意味が添えられる。
たとえば「教えてあげる」という言葉には、どこかモヤモヤした印象を感じないだろうか。
「教える」という行為は、人から人へ向かう一方向の働きである。
そこにさらに「あげる」という表現を加えると、相手に対して恩恵を強調するニュアンスが生まれる。
そのため、場合によっては「ありがた迷惑」やマウンティングのような印象を与えてしまうこともある。
加えて、日本語には上下関係によって言葉を調整する仕組みがある。それが敬語だ。
相手を持ち上げて場を整えるのが尊敬語、自分を下げて調和させるのが謙譲語である。
敬語
尊敬語:言う → おっしゃる(相手を高める)
謙譲語:言う → 申し上げる(自分を低くする)
丁寧語:です・ます(場を乱さない)
やりもらい動詞と敬語、どちらも「場の調和」を守るための仕組みと考えることができる。
しかし、人間は同時に、自分の個性を表現したい生き物でもある。
上下関係によって場の調和を保とうとする日本語だが、個性を縦ではなく横方向に広げる方法もあるのだ。
それを象徴するのが、一人称の多さである。
英語:I(個性は主に行動や発言の内容で表現される)
日本語:私、僕、俺、自分、吾輩、某、我、etc…(一人称そのものにキャラクターが宿る)
日本語では、一人称を変えるだけで話し手の立場や人格のニュアンスが大きく変わる。
つまり、日本語は上下の秩序を守りながら、横方向に個性を広げる仕組みを持っているのである。
また、言語の仕組みは絶対ではないので、上下関係のない場で敬語を活用できるし個性もでる。
例えば、あえて丁寧すぎる言葉を使うことで敬意をだす、もしくは心理的距離を置く(壁を作る)
「やりもらい動詞・敬語・一人称」から、登場人物がなぜその言葉を選んだのかを推測することができるのだ。
助動詞Willをどう訳す?
名詞のWillは「意志」を表すが、助動詞のwillは「~だろう」と説明されることが多い。
しかし実際には、willは単なる「推測・予測」だけでなく、文脈によっては強い確信や意志を表すことも多い。
つまり、助動詞willは思っている以上に「強い言葉」なのである。
これを「~だろう」「~するつもり」とだけ訳してしまうと、書き手が込めたニュアンスが弱まってしまうことがある。
私はアメリカ在住でもなければ英語を「読めるが話せない」ため断言はできないが、そう感じる場面が多い。
「人による」「ネイティブは気にしてない」と言われたらそれまでだが……
I will save you.:直訳すると「私は意志して助ける君を」
自然な日本語にすると「君を助ける」よりも「君を助けてみせる」の方がニュアンスに近い。
That will be the teacher.
「あれは先生だろう」よりも「あれは先生に違いない」という感覚に近い。
翻訳の難しさはここにある。willの使い方ひとつで、文章の「感情の強さ」が大きく変わってしまう。
実際の会話では問題ないかもしれないが、小説や物語になると「感情の動き」はことさら重要である。
日本人は確信していても「と思うよ」でお茶を濁すことが多いからニャ。
そう考えると、翻訳は英語だけでなく、日本語の文法や表現に対する理解も重要になってくるのではないだろうか。
文学に現れる日本語の繊細な表現
ではここからは、実際の文学作品から日本語の構造を見ていこう。
「吾輩は猫である」が作る印象
日本を代表する作家、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』。
猫の視点から人間社会を観察する、ユーモアに満ちた作品である。
実はこの作品、冒頭の一文だけでも日本語表現の特徴がよく表れている。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
夏目漱石『吾輩は猫である』
まず、一人称の「吾輩」はどこか尊大な響きを持つ言葉である。
さらに述語の「~である」という文体が、どこか重々しく、気取った語り口を生み出している。
もし「私は猫だ」と書けば、ここまでの尊大さは感じられないだろう。
「吾輩」と「~である」という言葉の組み合わせが、語り手である猫の妙な自尊心を生み出しているのである。
日本語では「どんな言葉を選ぶか」によって、語り手の人格までもが表現される。
「斜陽」に現れる貴族のプライド
より感情が色濃く表れている作家として、太宰治を挙げたい。
代表作『斜陽』では、戦後の日本で没落していく家族(母、姉、弟)が描かれる。
母は流されるままに生き、姉は運命に立ち向かい、弟は過去の栄光から逃げきれない。
物語の終盤、弟は姉に一通の手紙を残す。その末尾には、彼の万感の思いが込められている。
さようなら。
ゆうべのお酒の酔いは、すっかり醒めています。
僕は素面で死ぬんです。
もういちど、さようなら。
姉さん。僕は、貴族です。
太宰治『斜陽』
この文章には「さようなら」が繰り返され、最後は静かに「~です」で結ばれている。
また、主語を強調する「が」は使われず、淡々とした語りが続く。「僕が」という強い自己主張は見られない。
そして最後に残る言葉が、「僕は、貴族です。」である。
ここには説明も弁解もない。自分の立場を言い切るだけだ。彼にとっては揺るぎない事実だからである。
没落していく運命を知りながらも「貴族」であろうとするプライドが、この短い一文に凝縮されている。
「貴族でありたい」「僕は貴族です」この二つは全く違うニャ。
この考察に難しいことはやっていない。助詞の「は」と「が」を区別しているだけだ。
「香君」の冒頭で分かる作者の傾向
古典ばかりだと堅いので、現代作家に目を向けてみよう。
『獣の奏者』『鹿の王』を代表作とする日本のファンタジー作家、上橋菜穂子の『香君』の冒頭を見てみたい。
風が耳元で唸り、髪をなぶる。
上橋菜穂子『香君 上 西から来た少女』
この作品は、動植物の情報を「香り」から判別できる少女が主人公の物語である。
冒頭のこの一文は、危険な状況にいる主人公の独白であり、強い言葉が選ばれていると考えられる。
しかし、日本語表現の観点から見ると、作者の自然観も垣間見える。
「なぶる」という言葉は、強い力が弱い対象を激しく揺さぶるときに使われる他動詞である。
「風が髪をなぶる」という表現は、自然の力を人間よりも強い存在として描いている証明でもある。
「場の調和」という観点から見ると、この一文は場の均衡が激しく崩れている状況とも捉えられる。
このことから、作者が自然の力を強く意識、自覚して描いていると考えることもできるだろう。
(根拠には弱い、あくまで引用テクストからは部分的にそう解釈できるだけ)
そもそも「風がなぶる」って中々出てこない語彙ニャ…
まとめ|言語の神髄は文学である
私たちは日常生活でも無意識のうちに、場を「調和」させるような言葉遣いを選んでいることがある。
部活帰りの息子に「お風呂が沸いているよ」という家族。
「お風呂を沸かしたよ」では押しつけがましい。
「沸いているよ」という事実の列挙であれば、言語的に相手に何も押し付けずに済む。
これを説明する、サピア・ウォーフの仮説(言語が思考を決定する)というものが存在する。
しかし私が言いたいのは、その逆である。思考が言語を選ぶのだ。その言葉を選んだのはその人の性質である。
調和を望む『性質』があるから、数ある日本語の表現の中から『沸いている』を選択しているのだ。
この日本語の多彩な表現は、シェイクスピア『ハムレット』の有名な一文の翻訳からも伺える。
To be, or not to be, that is the question.:直訳すると「あるべきかあらぬべきか、それが問題だ」
日本語では「生きるべきか死ぬべきか」「存在するべきかしないべきか」「このままでいいのかいけないのか」
など、もはや正しい訳がどれかも分からないが、解釈した翻訳者の思想が現れている可能性も考えられるのだ。
感情的な「生と死」、論理的な「存在する/しない」、行動を問う「このままでいいのか」
しかし、解釈の幅がここまで広いこと自体、文学に「言語に縛られない選択」を感じさせるのである。
免責事項
筆者は言語学者ではなく、専門的な研究者でもありません。
本記事は書籍や研究、筆者自身の読書経験や考察をもとにまとめた一つの視点です。
また、本文中で触れている「主語廃止論」は確定した学説ではなく、考え方の一例として紹介しています。
同様に、本文中で触れた「英語と日本の仕組み」にも例外が多く、確定した学説はありません。
内容を鵜呑みにせず、さまざまな考え方の一つとして参考程度にお読みください。
参考文献
【日本人のための日本語文法入門】
原沢伊都夫 (著)講談社:2012年
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