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内向型ラボの研究所

いじめや不登校を経験しました。
そのなかで人付き合いに慎重な「人見知りの内向型」として成長してきました。

長いあいだ「生きづらさ」を感じてきましたが、少しずつ過去を受け入れ、いまは自分らしいペースで前を向いています。

このブログ 【内向型ラボ ― わたしらしく生きるための自己心理メディア】 は、内向型が無理をせず安心して暮らすための工夫や考え方を、私自身の体験や心理学・科学の知見とともにまとめた場所です。

同じように悩む方にとって日々の中で小さな幸せを見つけるきっかけになれば嬉しいです。

運営者の学びと資格

介護福祉士(2024年取得)
介護士として5年間現場に従事し、人の心や生活に寄り添う経験を積みました。
メンタルケア心理士®(2025年取得)
心理学の基礎から応用まで体系的に学び、心の健康に関する理解を深めました。

誤読は本当に「間違い」なのか|読書と解釈について考える

読書と思索の余白を表現した抽象的な書籍イラスト

「物語の正しい解釈」

この言葉は自然に見えて、どこか不自然さを孕んでいる。

そもそも物語においては「正しい解釈」という言葉そのものが複合的な意味をもつからだ。

正しい解釈とはなにか

作者の意図を正確に読み取ること。

物語の構造やテーマを理解すること。

あるいは、登場人物の感情を深く追体験すること。

読書論には、大きく分けて二つの立場がある。

作者の「意図」を重視する意図主義と、読者自身の「解釈」を重視する解釈主義だ。

意図主義の読み方は、作品への理解を深め、読解力を鍛えてくれる。

一方で、解釈主義の読み方は、自分自身の感性や想像力を広げてくれる。

しかし、ときに両者は激しく対立する。「こちらこそが正しい読み方だ」と。

その対立の中心に置かれやすいのが、「誤読」という言葉ではないだろうか。

果たして、作者の意図を超えて自由に作品を解釈することは許されないことなのだろうか。

この記事では、「誤読」と「解釈」という二つの視点から、読書について考えていきたい。

目次

誤読は、本当に「間違い」なのだろうか

一般的に「誤読」とは、作者の意図やテクストを誤って解釈してしまうことを指す。

つまり、作者が想定していた意味やテーマから外れた読み方をしたとき、人はそれを「間違った解釈」と呼ぶ。

しかし、解釈主義の立場に立つ人は、おそらくこう語るだろう。

「そのとき自分が感じたことこそが、その作品における答えなのだ」と。

この記事の誤読と解釈の基準

誤読: テクストの構造や事実関係の読み間違い(客観的に修正可能なもの)

解釈: テクストの余白に対して読者が与える意味付け(主観的に固有なもの)

作者の意図だけが「読書の正解」なのか

実際問題として、作者の意図を正確に把握すること自体が「作者に求められていない」文学作品は存在する。

たとえば「読者に解釈を委ねる余白」を持った作品では、一つの正解だけに辿り着くことは難しい。

夏目漱石『こころ』:親友Kはなぜ死を選んだのか

アルベール・カミュ『異邦人』:主人公ムルソーは本当に「異常」だったのか

村上春樹『1Q84』:リトル・ピープルとは何を象徴しているのか

ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』:純粋な愛だったのか、それとも悪魔の仕業か

こうした文学作品において、作者の意図を追い続けることが「正解」なのだろうか。

あるいは、自分自身が作品から受け取った感情や意味こそが、本当の解釈なのだろうか。

それとも、人々のあいだで共有されている「もっともしっくりくる解釈」に寄り添うべきなのだろうか。

少なくとも文学において、「唯一無二の正解」を求め続けることには、どこか窮屈さがあるように思える。

私たちは作者の思考を正確に辿れるのか

作者の意図を読み解こうとする行為は、想像以上に難しい。

「なぜこの言葉を選んだのか」「なぜこの結末にしたのか」と考え始めると、単なる読解では済まなくなる。

作者の体験、時代背景、社会潮流、思想、価値観、言葉選びの癖に至るまで、執拗な考察が必要になる。

しかし、どれだけ考えたとしても、結局のところ作者は「他人」である。

他者の内面を完全に理解することなど、本質的には不可能に近い。

たとえば私が好きなとある作家のエッセイには、思わず驚いてしまうような「思考の癖」が書かれていた。

とある作家の癖

スポーツ観戦では、いつも「右側」のチームを応援してしまう。

横スクロールのアクションゲームで、倒されていく「右側の敵」をかわいそうに感じていたことが原点らしい。

その作家は、現代社会の不条理や人間の孤独を、生々しく描く作風で知られている。

だからこそ、こうした日常的な感覚との結びつきに、私は驚かされた。

私たちは「スポーツ中継の右側を応援する」という理由を、それだけで推し量ることができるのか。

無理だろう。まさか「不条理への抵抗心」が隠れているなんて分かるわけがない。

「登場人物はなぜそのような行動をとったのか」

作者の意図を完全に理解するとは、つまりこういう「本人にしか分からない感覚」にまで辿り着くということである。

読解力と想像力のバランスを鍛える

もちろん、作者の意図を読み解こうとする行為そのものに意味がないわけではない。

むしろ意図主義的な読み方は、読解力を鍛え、言葉の構造や文脈を深く理解する力につながっていく。

一方で、「自分の解釈だけ」を絶対視してしまえば、思想や価値観が偏っていく危険性もあるだろう。

実際、私自身の読書方法は、ある意味で「テクストを鏡とした内省的な読解」とも言える読み方だ。

読んだ文章を次々と視覚的イメージへ変換していくため、気を抜けば作者の意図など簡単に置き去りになってしまう。

だからこそ私は、意識して文法構造や語尾、一人称、格助詞、やりもらい動詞といった細部を見る。

偏っていることを自覚したうえで、できる限り作者の意図から離れすぎないように読む。

結局のところ、作者の意図を追う読み方も、解釈を重視する読み方も、根底にあるのは同じなのではないだろうか。

どちらも「自分の頭で考える」という行為そのものだからだ。

読者は「純粋なテクスト」を読めているのか

ノーベル文学賞、芥川賞、本屋大賞など、国内外を問わず、文学賞は数多く存在する。

そして実際、それらをきっかけに素晴らしい作品と出会えることも多い。私自身、本屋大賞は毎年楽しみにしている。

しかし一方で、「受賞作家」という肩書きは、その瞬間から作家に一種の権威を与える。

言い換えるなら、作家として、一生ついて回る「ブランド」が確立されるということだ。

ブランドは読書体験を変えてしまう

本屋へ行くと、「○○賞受賞作家の最新作」「シリーズ累計○○万部突破」といった帯を頻繁に目にする。

実際、権威づけされた作品には自然と目が向きやすい。

少なくとも、「一定以上の面白さ」は保証されているように感じるからだ。

私たちは「本選びに失敗したくない」からこそ、ブランドを借りてしまう。

出版社の立場からすれば当然の戦略だろう。売れてほしいのだから、実績や権威を前面に押し出すのは合理的だ。

しかし、私はどうしてもそこに少しだけ居心地の悪さを覚えてしまう。

「作品そのもの」より先に「評価」や「肩書き」を読まされているような感覚がある。

たとえ数字ではなくても、「このジャンルならこの作家」と読者から強く認識されている作家は存在する。

ただ、私は「そのジャンルを読むなら、まずこの人」という空気が少し苦手だ。

読者の側は、それで安心して手を出すことができるかもしれない。

しかし同時に、先入観で読書体験そのものが固定化されてしまいそうで怖いのだ。

そして作家自身もまた、「期待される作風」に縛られてしまうのではないかと、私は考えてしまうのである。

もちろん、権威付けされないとそもそも読者側から見つけられない、という問題もある。

スティーブン・キングと「無名」の問題

アメリカのホラー作家、スティーブン・キングをご存じだろうか。

誰もが知る数々の名作を生み出し、「世界で最も有名な小説家の一人」と言っても過言ではない存在だ。

そのキングがかつて「リチャード・バックマン」という別名義で小説を出版した際、象徴的な出来事が起こった。

作品は、そこそこしか売れなかったのである。

当時のバックマン名義作品は、初版でおよそ2万8000部。新人作家として見れば十分健闘している数字だ。

だが、「スティーブン・キング」という名前が持つ圧倒的な影響力を考えれば、決してヒットとは言えない。

つまりこれは、筆致力や構成力だけでは、「優れた作品」として発見されない可能性を示している。

読者は、純粋にテクストだけを読んでいるわけではなく「誰が書いたのか」という情報も読んでいる。

同じような現象は、『ハリー・ポッター』の作者であるJ.K.ローリングにも起きている。

彼女は「ロバート・ガルブレイス」という別名義で作品を出版したが、3か月間でわずか約1500部しか売れなかった。

もし本当に「面白さ」だけで作品が評価されるのなら、この現象をどう考えればいいのだろうか。

「面白い作品」が売れるとは限らない

クリエイターを題材にした物語では、「面白い作品を作れば必ず評価される」という展開がよく描かれる。

努力と才能が報われる構図は美しいし、読んでいて気持ちがいい。

しかし現実には、どれだけ優れた作品でも、読者に「発見されない」ことがある。

あるいは、その時代の空気や社会の潮流に合わず、正当に評価されないことも珍しくない。

私にとっての最高傑作が、隣の誰かにとっては退屈な駄作である可能性は、いくらでも存在する。

よく「本当に優れた作品は、5年後10年後にも読み継がれている」と言われる。

たしかに、それは一つの真実かもしれないが、話はそこまで単純ではない。

世に出る機会さえあれば「天才」と称賛されていたかもしれない作家が、誰にも知られないまま消えた。

そんな人物が、歴史上に誰一人いなかったとは思えない。

近年ではインターネットやSNSの発達によって、「口コミ」が作品を大きく広める時代になった。

しかし、それは同時に、「短期間で消費される流行」を生みやすい環境でもある。

爆発的に話題になった作品が、数か月後には誰にも語られなくなる。

今一度考えたい。私たちは本当に、作品そのものを読んでいるのだろうか。

そもそも、「誤読や解釈」を語り合う以前に、私たちは純粋なテクストへ辿り着けてすらいないのではないだろうか。

誤読が暴力になる瞬間

人は誤読する。

しかも、その読書体験はブランドや時代の空気、他者の評価といった「ノイズ」から完全に自由ではいられない。

つまり私たちは、純粋なテクストだけと向き合うことすら、本質的には難しいのだ。

だからこそ読書において、私は「主観」と「客観」を分けて考える必要があると思っている。

ニーチェはなぜ利用されたのか

哲学に少しでも触れたことがある人なら、一度は名前を聞いたことがあるだろう。

ドイツの思想家、フリードリヒ・ニーチェである。

そして彼の思想は、「誤読」と「解釈」が社会的な暴力へ変わりうる例として参考になる。

ニーチェは晩年に精神を病み、自ら思想を整理できない状態に陥った。

その後、反ユダヤ主義的な思想を持っていた妹エリーザベトによって著作が編纂される。

結果として、ニーチェ思想は「ドイツ人至上主義」の文脈へ接続され、ナチスに利用されていった。

実際、ニーチェの文章には危うさがある。

言葉は苛烈で、挑発的で、ときに読む者を選民思想へ導くような雰囲気すら漂わせる。

しかし一方で、ニーチェ自身は反ユダヤ主義を嫌悪しており、単純な優生思想や民族主義とも距離を置いていた。

つまりここには、妹の恣意的な編集だけではなく、「誤読と解釈」が社会的な毒へ変質した瞬間が存在している。

もちろん、ある思想をどう読むかは個人の自由だ。

「ニーチェは危険思想に見える」という主観的な感想そのものを否定することはできないし、間違いでもない。

しかし問題は、その主観を「客観的な事実」として他者へ押し付けたことにある。

主観が「正解」へ変わるとき

読書の仕方は、人によって大きく異なる。

だから一つの例として、ここでは私自身の読み方について話してみたい。

私個人は、ある意味で「テクスト即応読解」を基本とし、目的では「解釈主義」とも言える立場にいる。

ときには作者名すら意識せず、そのまま作品を読み終えてしまうこともある。

私にとっての読書
つまり他者の物語や思想に触れることは、「人生をどう生き延びるか」を考えるための行為だからだ。

「人生を豊かにする読書」というより、「生き残るための読書」が、私の基本姿勢に近い。

だからこそ、「どのような意図で書かれたのか」という問題は、どうしても二の次になってしまう。

この場面で、自分はなぜ感動したのか。

この感覚を、どのように自分の人生へ持ち帰れるのか。

私はこの作品全体から、どのようなテーマを受け取ったのか。

私の読書は、常にこうした問いと結びついている。(といっても読書全体の7割程度だが)

ただし、それはあくまで「私にとっての答え」であり、他者へ押し付けるべき正解ではないとも思っている。

解釈と押し付けは違う

このブログでも、私はよく「主観的な考え方」を書いている。

だが、それを「絶対に正しい答え」だとは書かないようにしている。

数多くの本を読み、他者の思想や解釈に触れたとしても、それをそのまま借りて終わりにはしたくない。

たとえ継ぎはぎだらけでも、自分なりに咀嚼し、再構成していくことに意味があると思っている。

それが「明日を生きるための考え方」として機能するのであれば、その人にとっての「主観的な正解」にはなり得る。

しかし、それを「客観的な正解」として他者へ押し付け始めた瞬間、話は変わってくる。

他者にとっての正解が、自分にとっての正解と一致するとは限らないからだ。

たとえ自分の解釈が、作者の意図に比較的近かったとしても、それを他人へ強制することに意味はあるのだろうか。

読解力を鍛えるという意味でも、「答えを押し付けられること」は、むしろ思考停止につながりかねない。

そして解釈とは本来、「自分が何を感じ、何を考えたのか」という極めて個人的で孤独な営みでもある。

だから私は、解釈と押し付けは、まったく別のものとして切り分けて考えるべきだと思っている。

読書は自分を読む行為である

「偏ったニュースや思想、本をわざわざ読む必要はない」という言説を目にしたことがある。

しかし、私自身の考えは少し違う。

重要なのは、「偏っている」と自分が感じていることを自覚したうえで解釈しようとする姿勢ではないだろうか。

自分が「偏っている」と感じたその感覚が、どのような価値観や二項対立から生まれているか。

一度、自分の思考をできるだけフラットにしてから、「危険だ」「偏っている」と批判されている本を読んでみる。

すると、そこには想像していなかった発見が眠っていることがある。

それは、本当に社会的倫理から逸脱しているのか。

もし逸脱しているのなら、なぜ著者はその方向へ向かったのか。

周囲の評価と、自分自身の評価は、どこが違っているのか。

こうした問いを繰り返していくと、読書は単なる知識収集ではなくなっていく。

本を読んでいるようでいて、実際には「自分がどのような価値観で世界を見ているのか」を確認しているからだ。

もちろん、読書とは楽しむことが最優先だ。雑で自由なものでも構わないと私は思うし、優劣もない。

難しい部分は飛ばしてもいいし、内容よりも登場人物や雰囲気を好きになってもいい。

読書から得たものが、人生の役に立つかどうかは分からない。

だが少なくとも、自分自身の立ち位置を理解する助けにはなるのだと思う。

免責事項

本記事は、読書・解釈・思想についての筆者個人の考察をまとめたものです。

記事内で扱う作品解釈や哲学的な内容には、筆者自身の主観や経験が含まれています。

また、思想・文学・社会に関する記述は、あくまで「読書」に関する例示として取り上げています。

内容を鵜呑みにするのではなく、ご自身の感覚や考え方と照らし合わせながら読んでいただければ幸いです。

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