以前書いた『人はなぜ退屈するのか』という記事では、退屈する原因と対処法について考察を行った。
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退屈だ。 仕事は休み。家事や掃除などやることはある。新作のゲームも買っている。それでも、なぜか気がのらない。 暇をつぶす方法はある。それでも、退屈は消えない。―…
記事内で提示した結論を簡潔にまとめると、次のようになる。
退屈論の要約
退屈の正体とは、安全で快適になった現代社会の中で、生き場を失った「認知エネルギーの余剰」である。
動画やゲーム、SNSなどの「受動的な消費(快楽)」では、この余剰を根本的に処理することはできない。
人間を特別視するのではなく、あくまで生存と繁殖に最適化された動物として捉え直す必要がある。
そのうえで重要なのは「能動的な没頭(熱中)」によって余剰を燃焼させることである。
しかし、この「退屈論」にはいくつか弱点もある。
- 退屈という現象を「認知エネルギーの余剰」に還元しすぎている
- 退屈を解消するための「没頭」が、依存や消費とどう違うのかを十分に扱えていない
そもそも前回の記事も、厳密な学術理論ではなく、哲学・科学・進化論などを横断した「実践哲学」である。
そして何より問題なのは、「退屈」という概念を広義に捉えすぎていた点だ。
なぜなら人は、単に暇だから退屈するわけではない。満たされている最中にも「飽きる」からである。
どれだけ好きなゲームでも、どれだけ憧れた仕事でも、どれだけ望んだ生活でも、人はやがて慣れてしまう。
つまり今回考えたいのは「退屈」の次にある問題。人はなぜ、こんなにも飽きるのか?というテーマである。
目次
なぜ人はこんなにも飽きるのか
人は退屈する。そしてそれ以上に、人は驚くほど簡単に物事へ飽きてしまう。
これは単なる「暇」の問題ではなく、むしろ、人は満たされている最中ですら飽きる。
電車が到着するまで30分。待つ時間そのものに「飽き」と「退屈」を覚える。
どれだけ大好きな料理でも、三日連続で食べ続ければ次第に感動は薄れていく。
何度でも遊べると思っていたゲームも、何百時間も続ければ、やがて面倒になる。
さらに厄介なのは、「飽き」は快楽だけに起こる現象ではないという点だ。
夢だった仕事。憧れていた生活。必死に追いかけていた目標。そうして得たものでも、人は状況に慣れる。
なぜ私たちは、こんなにも簡単に飽きるのだろうか?
人間は適応に満足しない生き物
あなたには、好きなゲームやアニメ、漫画、小説があるだろうか。
ある作品が「どこかで見たような物語」「記号的なキャラクター」「予想通りの結末」だったとしたら。
おそらく、多くの人は「つまらない」と感じるはずだ。
なぜなら、すでに何度も見たことがあるから、知っている情報だからである。
つまり私たちは「知っているもの」に対して簡単に飽きる。
ここで起きているのは、刺激不足ではなく「すでに適応が終わっている」という状態に近い。
人間の脳は、良くも悪くも新規性や環境を含めた変化に強く反応する。
逆に言えば、既知の情報は未知の情報よりも強く反応しないということでもある。
たとえば、あなたが原始時代のサバンナで生きていたと仮定しよう。
原始時代のサバンナで「あそこの木には甘い実がなる」という情報を知ったとする。
一度食べて満足し、そこだけに留まり続ければ、その木の実が枯れた瞬間に飢え死にする。
だから脳は、既知の餌場に『飽き』をもたらし「まだ見ぬ新しい豊かな土地」を探させようとする。
だから脳は、知っている情報や環境よりも「まだ知らない危険」や「未知の環境」に意識を向け始める。
もし生物が一つの環境、一つの行動、一つの快楽だけで永遠に満足してしまえば、探索をやめる。
新しい土地を探さない。危険の変化に気づかない。環境変化に適応できない。
つまり「飽き」とは欠陥ではなく、未知へ向かうための更新機能ではないだろうか?
現代社会は「退屈」を凶暴化させる
私たちは退屈する。
私はその原因を「生存や繁殖のために使われるはずだった認知エネルギーが行き場を失っている」と仮定した。
しかし、ここで新たな疑問が生まれる。
なぜ人は、電車の待ち時間のような「何も起きていない時間」に、あれほど強い退屈を感じるのだろうか。
ふとした瞬間に「なんとなく退屈だ」と感じるのはなぜだろうか。
私たちは程度の差こそあれ、常に何らかの「未知」を求めながら生きている。
食べたことのない料理。行ったことのない土地。誰も知らない世界の秘密。
人間の認知は「知らないもの、知られていないもの」に引っ張られる。
だが、電車の待ち時間や、待ち合わせ相手の遅刻のような状況では、その場から自由に動くことができない。
つまり、「未知へ向かいたい」という認知の運動性だけが残り、身体は拘束される。
行き場を失った認知エネルギーが、その場で空回りしている状態――それが退屈である。
しかも産業革命以降の社会は、この感覚をさらに増幅させる。
SNS、ショート動画、ゲーム、現代の娯楽は「次の刺激」が絶え間なく供給される構造でできている。
人間の脳は、その高速な刺激環境へ適応していく。
すると何が起きるのか。今度は逆に「何も変化しない時間」に耐えられなくなる。
つまり現代人は、刺激へ適応しすぎた結果、静止状態そのものに飽きている。
さらに現代社会では、複雑化した法律や社会規範によって、人は常に「動き方」を制限されている。
自由であるはずなのに、実際には多くの場面で拘束され、待たされ、管理される。
物理的・時間的な拘束、社会的・制度的な拘束、そして過剰な適応を強制される娯楽。
自己コントロール感を失った状態が続けば、人は「不自由そのもの」に飽き始める。
つまり人は、同じ刺激に適応し「飽きる」ことで、その先に「退屈」を生み出しているのではないだろうか。
「不足」ではなく「過剰」で退屈する
高刺激が飛び回る現代社会では、人は「何も変化しない時間」に耐えづらくなっていく。
依存研究で知られるアンナ・レンプケ博士によると、脳は快楽と苦痛を同じ場所で処理しているという。
そして人間には、そのバランスを一定に戻そうとする性質がある。これを「相反過程理論」と呼ぶ。
レンプケ博士は、この働きを分かりやすく「快楽と苦痛のシーソー」として説明している。
全ての快楽には犠牲がつきものだ。
快楽の後からやってくる苦痛は、当の快楽よりも長続きし、強烈である。
アンナ・レンプケ『ドーパミン中毒』
SNS、ショート動画、ゲーム、絶え間なく流れ込む情報。
現代社会の高速な刺激循環は、一時的な快楽を与える一方で、その反動として「苦痛」を生み出していく。
しかも厄介なのは、人間が同じ刺激に適応してしまうことだ。
最初は強烈だった刺激も、繰り返されるうちに慣れていく。つまり、人は「飽きる」
すると、以前と同じ快楽では満足できなくなる。より速く、より強く、より新しい刺激を求め始める。
こうして快楽と苦痛のシーソーは、振れ幅だけを拡大させていく。
現代の刺激循環に「適応」した結果、何もしない時間や穏やかな日常は「苦痛側のシーソー」に引きずり込まれる。
過剰な刺激に脳が疲れ果て、日常の小さな変化を検知できなくなる(=飽きる)という「過剰」の病。
それが「すべてに飽きて退屈する」という「結果」を生み出すのではないだろうか。
飽きは悪なのか|創造性と文明のエンジン
ここまで「飽き」を、現代社会が生み出す問題のように扱ってきた。
しかし、飽きは悪い面ばかりではない。むしろ人類は、「飽きる」という性質によって前進してきたとも言える。
科学革命も、芸術も、技術革新も、「今のままでは満足できない」という感覚から始まっている。
「飽き」とは、未知への興味を生み出す原動力であり、人間を前へ進ませるエンジンなのだ。
飽きは文明を前進させるのか?
同じ刺激に適応し「飽きる」ことで、その先に「退屈」を生み出しているのではないだろうか。
先ほど示したこの「飽き」と「退屈」の構造は、個人の心理だけ完結するのだろうか?
もしかしたら、文明の発展そのものにも関わっているのではないだろうか。
自身の持つ大国に「飽きた」王:より広い領土を求める
いつもの味に「飽きた」料理人:より美味しい料理を追求する
非効率な労働に「飽きた」資本家:より楽な仕組みを作ろうとする
もちろん、文明の発展を単純に「飽き」だけで説明することはできない。
疫病、戦争、革命、偶然、人口増加、地理的条件――文明は、無数の要因が絡み合いながら変化してきた。
それも含めて、「今の環境では満足できない」という感覚が、人類を前へ押し出してきた側面は確かにある。
現状に適応し、やがて飽きる。だから次を探す。
もし人間が、今ある刺激だけで永遠に満足できる生き物だったなら、文明はここまで加速しなかったのかもしれない。
「飽きっぽい人」は本当に弱いのか
性格心理学には「ビッグファイブ」と呼ばれる、人の性質を5つに分類する理論が存在する。
もちろん万能ではないが、統計的に一定の再現性を持つ、有用な性格指標として広く利用されている。
ビッグファイブ5つの分類(IPIP)
- 神経症傾向:不安やストレスを感じやすく、感情が揺れやすい傾向。
- 外向性:刺激や対人交流を好み、活発に行動する傾向。
- 協調性:思いやりがあり、他者と調和的に関わろうとする傾向。
- 誠実性:計画性や責任感が強く、物事を継続しやすい傾向。
- 開放性:新しい経験や発想、美や抽象的なものに惹かれやすい傾向。
私が考えるに、「飽き」と深く関係しているのは、特に外向性・誠実性・開放性ではないだろうか。
外向性は「どの程度の刺激量を求めるか」に関係する。
誠実性は「どれだけ同じ対象に関与し続けられるか」に関係する。
開放性は「未知や変化にどれほど強く惹かれるか」に関係する。
このことからも分かるように「飽きる」という現象は単純ではないのかもしれない。
どれくらい刺激を必要とするか。どれくらい未知を求めるか。どれくらい継続を苦痛と感じるか。
そうした性質には、人によってかなり大きな差がある。
また、神経症傾向も「未知に対する不安」や「変化への恐怖」と関係している可能性がある。
つまり、「飽きっぽい」という言葉は、個人差を無視して貼られる雑なラベルにすぎないのではないだろうか。
人によって、適切な刺激量も、没頭の仕方も、更新頻度も違う。
どれに、どの程度、どのように関わるのが自然なのかが、人によって異なるだけだとしたら。
「飽きっぽい」という言葉は、単なる性格批判や悪口へと変わってしまう。
また、性格には「気質的要因」はあるものの固定されたものではなく、生涯に渡って変化していくとされている。
「性質は完全に固定されたもの」ではないことには注意が必要だ。
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問題は「受動的消費」に閉じること
人にはそれぞれ異なる性質がある。しかし、その違いを超えて共通していることもある。
受動的な娯楽ほど「飽き」が速く進みやすい。
なぜなら、受動的な娯楽には「開始時の苦痛」がほとんど存在しないからだ。
動画を流す。SNSを開く。ショート動画を眺める。ゲームを起動する。
これらは、ほぼ努力なしに快楽へ接続できる。
苦痛と快楽のシーソーで例えるなら、中央から即座に快楽側へ傾いていく状態である。
そして、その反動として、レンプケ博士の言葉を借りるなら、快楽のあとにはより大きな「苦痛」が返ってくる。
結果として、人はさらに刺激を求め、さらに飽きやすくなる。
反対に、能動的な行為は構造が逆になる。
最初に「面倒」「疲れる」「やりたくない」という苦痛があり、その反動として快楽や没頭が生まれる。
苦痛から快楽へ
冷水シャワー:最初は痛いほど冷たいが、浴びたあとには強い覚醒感が残る。
ジョギング:走り始めは億劫でも、次第に気分が高揚していく(ランナーズハイ)
読書(活字):読み始めは集中力を要するが、没頭すると時間感覚が薄れていく。
つまり「飽き」の問題の一つには、受動的な快楽だけで、自分の認知や感情を埋め続けようとすることにある。
だからこそ、人には受動的な消費だけではなく、苦痛を含んだ「能動的な没頭」が必要になる。
退屈も飽きも「没頭」でしか超えられない
以前の記事で、私は「退屈を燃やすのは没頭である」と書いた。
受動的な快楽ではなく、能動的な関与によって認知エネルギーを燃焼させること。
それが、退屈に対する一つの答えだと考えたからだ。では、「飽き」に対してはどうすればいいのだろう?
人はどれほど強く没頭した対象にも、やがて適応してしまう。
最初は夢中だったゲームも、仕事も、創作も、人間関係すらも、時間が経てば「慣れ」が生まれる。
つまり、没頭そのものですら「飽き」の対象になり得る。飽きなくても、求め続ければ「灰」になる。
灰になるまで没頭してしまう
「没頭すること」にも弱点がある。その代表例が、燃え尽き症候群(バーンアウト)である。
バーンアウト
それまで熱心に仕事や目標へ取り組んでいた人が、急激に気力や意欲を失い、心身が限界を迎える状態。
もちろん私は医師でも研究者でもないため、医学的な断定はできない。
ただ少なくとも、認知や感情のエネルギーが枯渇し、自分を燃やし続けられなくなった状態とは言えるだろう。
そして厄介なのは、バーンアウトが「強く没頭できる人」ほど起こりやすい点にある。
目標を持ち、努力し、集中し、自分を追い込み続ける。
それ自体は社会的には「良いこと」とされやすい。
しかし、燃料を補給しないまま走り続ければ、いずれエンジンは焼き切れる。
つまり「没頭せよ」という言葉は、使い方を間違えれば「灰になるまで燃え続けろ」という意味にもなってしまう。
言うまでもなく、それは避けた方がいい事態である。
持続可能性と更新性が鍵になる
没頭、没頭と何度も書いているが、これは自分自身に苦痛を与え続けるという意味ではない。
心理学でいう「フロー状態」を目指す、ということである。
フローとは、適切な難易度と、それに見合った能力が釣り合った時に生まれる「没頭」の状態である。
A1:目標を設定したスタート地点
A2:能力が高いが難易度が低い=挑戦が物足りず、退屈を感じる
A3:難易度が能力に見合っていない=不安や焦りを感じる
A4:能力と挑戦が釣り合った瞬間に、フローが生まれる
退屈を避けるためには、簡単すぎても難しすぎてもいけない。刺激が弱すぎれば「飽きる」からだ。
反対に、刺激が強すぎれば疲弊する。人は「適応することができる」と感じる環境で没頭できる。
ただし、このフローにも同様に弱点があり、それが「持続可能性」である。
どれほど好きなことでも、休息なく燃やし続ければ、いずれ適応し、摩耗し、飽きる。
だから必要なのは、単純な努力や根性ではなく、没頭を「更新」し続けること。
難易度を変える。視点を変える。環境を変える。目的を変える。
つまり、同じ対象に閉じ続けないことである。
バーンアウトを避けるためにも、自分自身の体調や限界点を把握し、「没頭」を管理する必要がある。
シーソーゲームのバランスをとる
持続可能性において、最大の問題となるのが心身のコンディションである。
では、その「摩耗」や「変化」を、どのように把握すればいいのだろうか。
私は、その一つの指標が「苦痛と快楽のシーソーを振り過ぎないこと」だと思っている。
シーソーを動かすにはエネルギーを使う。
バーンアウトとは、所謂「シーソーが高速回転している状態」なのではないだろうか。
だから必要なのは、シーソーの振れ幅そのものを小さくすること。
急激な刺激ではなく、ゆるやかな没頭を増やす。短期的な快楽ではなく、長く続く満足感へ重心を移す。
始めるまでは少し面倒(小さな苦痛)だけれど、やり始めると時間が溶けていく、ゆるやかな快楽。
ショート動画のような「一瞬で跳ね上がる快楽」や、徹夜の仕事のような「心身を削る努力」
どちらもシーソーを大きく揺らし、脳を焼き切ってしまう。
つまり、飽きて退屈しないためには、刺激を増やし続けるのではなく「適切に揺れる状態」を維持する必要がある。
人生は「飽き」を処理するゲームである
前の記事で提示した「退屈を処理するゲーム」の攻略法は、以下の通りだった。
退屈を処理するゲーム
ルール:「退屈」は敵ではない。高性能な脳というエンジンを積んでいる証である。
落とし穴:そのエンジンが生み出す認知エネルギーは、現代では行き場を失っている。
攻略法:幸せや快楽を「状態」として手に入れようとするのをやめ、自分を燃焼させ続ける。
ゲームの隙:あえて負荷の高い道を選ぶことが、結果的に最も楽に生きる方法であるという逆説。
では、今回提示した「飽き」を処理するゲームの攻略法はどうなるのか。
飽きを処理するゲーム
ルール:人は必ず飽きる。同じ刺激、同じ環境、同じ快楽には適応してしまう。
落とし穴:受動的な刺激を増やし続けると、脳が適応し、より強い刺激を求めて摩耗していく。
攻略法:「消費」ではなく、「更新」する。能動的な没頭によって、刺激と環境を変化させ続ける。
ゲームの隙:楽をし続けるほど飽きやすくなる。適度な苦痛や挑戦を受け入れた方が、結果的に安定する。
つまり、退屈も飽きも、本質的には「止まった状態」に耐えられない脳の問題なのかもしれない。
だから人は、未知を探し、変化を求め、没頭する。
それは欠陥ではなく、生存のために与えられた機能なのだろう。
免責事項
本記事は、研究・書籍・筆者自身の考察や経験をもとにまとめた参考情報です。
筆者は専門家・研究者ではなく、本内容は学術的な結論を提示するものではありません。
提示しているのは実践哲学としてのパッチワークであり「一つの見方」に過ぎません。
内容を鵜呑みにするのではなく、ご自身の感覚や経験と照らし合わせながらお読みください。
参考文献
【Big Fiveパーソナリティ・ハンドブック 5つの因子から「性格」を読み解く】
谷伊織・阿部晋吾・小塩真司(編著)福村出版:2024年
【ドーパミン中毒】
アンナ・レンブケ(著)/恩蔵絢子(訳)/新潮社:2022年
【フロー体験 ─ 喜びの現象学】
M.チクセントミハイ(著)今村浩明(訳)世界思想社:1996年
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