人としての正しさと、自分の感情が一致しないとき、私たちはどう生きればいいのだろうか。
「正しい倫理とは何か」を考えるとき、トロッコ問題ほど分かりやすい思考実験はあまりない。
トロッコ問題
暴走するトロッコの先には5人の作業員がいる。
あなたがレバーを引けば軌道を変えられるが、その先には1人の作業員がいる。
あなたはレバーを引くだろうか?
この問題を考えるとき、一般的には2つの倫理観が挙げられる。それが功利主義と義務論である。
「最大多数の最大幸福」を重視する功利主義では、個人の価値は等しいためレバーを引くべきだと考える。
1人を犠牲にして5人を救う方が、結果としてより多くの命を守れるからだ。
「破ってはならない道徳的義務」を重視する義務論では、そもそもレバーを引いてはならないと考える。
レバーを引くことで、1人を『5人を助ける手段』として利用しており、禁忌(殺人)に触れるからだ。
この記事では、トロッコ問題を少し変則的な形に置き換えてみたい。
もし線路の先にいる1人が「あなたの大切な人」だったらどうだろうか。
そして、もう一方の線路の先にあるのが「世界の滅び」だったとしたら。
あなたは世界を救うために、大切な人を犠牲にできるだろうか?
本記事では、この構図を描いている「セカイ系」というジャンルから、倫理と感情の対立について考えてみたい。
目次
セカイ系から見る倫理
トロッコ問題では、線路の先にいる作業員は基本的に「赤の他人」である。
功利主義(最大多数の最大幸福)も義務論(道徳的な義務)も、個人的な感情や関係性を判断基準には置かない。
なぜなら、この問題は純粋に「倫理として何が正しいか」を考えるための思考実験だからだ。
では、ここに感情という変数を加えたらどうなるか。
トロッコ問題をセカイ系に置き換える
セカイ系とは、2000年代にアニメやマンガ、ゲームを中心に語られるようになった物語ジャンルである。
厳密な定義は論者によって異なるものの、おおむね共通する特徴は次のようなものだ。
セカイ系
主人公とヒロインの個人的な関係が、世界の破滅や救済といった巨大な問題に直結する物語。
主人公:世界を左右する力は持たないが、ヒロインにとって特別な存在。
ヒロイン:世界の命運と何らかの形で結びついている存在。
通常のトロッコ問題では、5人も1人も基本的には赤の他人である。あくまでも「私は第三者」でしかない。
だからこそ私たちは、人数や道徳原則といった抽象的な基準から判断しようとする。
しかし、セカイ系というジャンルでは事情が異なる。
セカイ系では「世界(多数)」と「愛する人(少数)」が天秤にかけられる。
「主人公は当事者」であり、多数側は「愛する人を奪おうとする敵」になる。
これはトロッコ問題に「感情」という要素を持ち込んだ、変則的な倫理実験として読むこともできるのではないか?
セカイ系の結末「セカイか、キミか」
倫理学的に考えるなら、セカイ系の「正しい結論」は比較的明快である。
功利主義なら世界を救うべきだし、義務論なら「個人を手段にすることはできない」ので世界は滅ぶしかない。
しかし、人の感情はそう簡単に倫理へ従わない。そもそも義務論でセカイ系を語ること自体が難しい。
あるセカイ系作品では、主人公は「彼女を犠牲にする世界など認めない」という選択をする。
また別の作品では、世界を救おうとする他者を害してでも、大切な人を守ろうとする。
文章だけで見れば、どちらも極めて利己的な選択である。しかし私たちはその選択を単純に否定できない。
なぜなら長い時間をかけて主人公とヒロインの関係を描き、読者に感情移入を促しているからだ。
その結末に批判や否定「だけ」が集まるのであれば、上記2つの作品は評価されていない。
つまり感情とは、ときに世界に害をもたらすような利己的な選択さえ正当化してしまう力を秘めているのである。
親密圏の倫理と道徳
セカイ系では「世界を救うべきだ」という正しさよりも、「この人だけは救いたい」という感情が前面に出てくる。
これは本当に「倫理的に間違った選択」なのだろうか?
哲学者バーナード・ウィリアムズは、人間を「公平な道徳判断を下す存在」として捉えすぎていると批判した。
功利主義も義務論も、基本的には誰に対しても同じ基準を適用する。
しかし私たちは、現実にはそんな生き方をしていない。
バーナード・ウィリアムズの倫理
人は世界中の全員を平等に愛することはできない。
私たちは家族や恋人、友人といった特定の相手に特別な責任や愛情を抱いて生きている。
だからこそ「世界全体の利益」と「大切な人への責任」が衝突することがある。
ウィリアムズに倣うなら、次のような行動はむしろ自然なものだろう。
「恋人」と「赤の他人」の2人が激流に溺れており、自分はどちらか1人しか助けられない。
迷わず恋人のもとへ泳ぎ、恋人を救い出した。
溺れている2人を前にして、「赤の他人を見捨てても道徳的には許されるだろうか」などと考える余裕はない。
ウィリアムズは「愛する人を助ける正当性」をいちいち道徳理論に照らして確認すること自体がおかしいと考える。
人間は普遍的な道徳だけで生きているわけではなく、具体的な誰かとの関係の中で判断している。
では、もし「愛する1人」と「世界全体」が完全なトレードオフの関係になったらどうだろうか。
ウィリアムズの倫理はあくまで「身内への優先」を認めるものであり、全人類の犠牲を正当化するものではない。
「他者を害してもよい」という免罪符にはならないニャ。
しかし、彼の倫理を極限まで突き詰めるなら、セカイ系の主人公たちの選択は見え方が変わってくる。
彼らにとってヒロインを救うことは、道徳的計算を超えた「自らの生を成り立たせるための希求」だからだ。
問題は、その選択の代償があまりにも大きいことである。
実際に、セカイ系の主人公の行動には常に「世界の重さに耐えられるか」という葛藤が付き従う。
そこには誰も傷つかない第三の道が存在しない。
だからこそ、愛する人への責任や愛情は、世界全体の利益と正面から衝突する。
「私個人の生」にとって譲れない誠実さが、普遍的な道徳と衝突して決定的な破綻を迎える。
セカイ系とは、その衝突を極端な形で描いた物語なのではないだろうか。
なぜ「世界」より「きみ」を選ぶのか
ここまで見てきたように、セカイ系は「世界」と「大切な人」のどちらを選ぶのかを問う物語である。
しかし興味深いのは、多くの読者や視聴者が主人公の利己的ともいえる選択に一定の共感を覚えてしまうことだ。
なぜ私たちは、「世界を救うべきだ」という正しさよりも感情に引っ張られるのだろうか。
以下では、2つのセカイ系作品を参考にしながら考えてみたい。
なお、セカイ系というジャンル名そのものが作品の核心に触れてしまうため、タイトルは伏せて論じる。
セカイ系A──世界のためにきみを失う
セカイ系Aでは、主人公はどこにでもいる平凡な少年である。
対して、ヒロインは世界の命運と深く結びついた特別な少女だ。
そのため大人たちは、少女を一種の「世界を守るための装置」として扱っている。
当然ながら、少年には世界を変える力などない。
そしてやがて、彼女がどのような運命を背負わされているのかを知る。
「世界を守るためには、少女が犠牲になるしかない」
主人公はその運命に抗おうとする。しかし相手は国家規模のシステムであり、少年一人にできることはない。
やがて彼は、自分の無力さと向き合わされることになる。
そして物語の終盤、葛藤の末に、主人公は少女への想いを言葉にする。
それは「世界を救え」という大義ではなく「キミに生きていてほしい」という極めて個人的な願いだった。
主人公は「世界の救い手」としてではなく「好きな女の子」として接することを決めたのだ。
しかし少女は、その願いを受け取りながらも、自らの運命を引き受ける。
世界よりも少女を選んだ主人公の行動が、少女にとって、結果的に世界を守る大義名分となった。
「あなたに生きていてほしいから」そんな願いを胸に少女は世界を救う。
セカイ系B──世界を捨ててきみを救う
セカイ系Bでは、主人公は人生のほとんどを失い、ただ生き延びるためだけに日々を過ごしている男である。
対して、ヒロインは世界を蝕む災厄を終わらせる可能性を秘めた、唯一無二の少女だ。
男には世界を救う力などない。彼に与えられた役目は、少女を目的地まで送り届けることだけだった。
しかし旅を続けるうちに、二人の間には強い絆が生まれていく。
そして旅の終わり、主人公は少女が背負わされている運命を知る。
「世界を救うためには、少女の命を犠牲にするしかない」
主人公はその選択を受け入れられなかった。目の前にいる少女は、人類を救うための材料ではない。
苦楽を共にし、失った者との面影を重ね、ようやく取り戻した大切な存在だったからだ。
そして物語の終盤、主人公は世界よりも少女を選ぶ。
主人公の選択は世界を救おうとしていた人々を傷つけ、害し、その可能性を奪った。
さらに彼は、少女に真実を告げることさえしなかった。
生き残った二人は、崩壊していく世界へと戻っていく。
感情移入は倫理判断を変える
セカイ系AとBに共通しているのは、主人公とヒロインに徹底的に感情移入させる構造を持っていることだろう。
読者は長い時間をかけて二人の関係を見守り、その喜びや苦しみを共有する。
たとえば、Aでは絶対に叶わない理想が空想として描かれ、Bでは主人公の壮絶な過去が明らかになる。
その結果、物語の終盤では「世界を救うべきだ」という正しさよりも「救われてほしい」という感情が強くなる。
二人の主人公の選択は、功利主義的にも道徳的にも擁護が難しい。
しかし私たち読者は、その行動を単純に批判することができない。
主人公が失ってきたものや、ヒロインとの間に築かれた関係を知っているからだ。
気付けば私自身もまた、「世界」ではなく「少女」の側へ感情的に引き寄せられている。
少なくともフィクションの中では、私たちは倫理や道徳だけで判断しているわけではないことが分かる。
主人公とヒロインを知ることで、主人公の決断に「心理的な納得感」を認めてしまう。
感情移入は、ときに「倫理的、道徳的に正しいはずの答え」すら書き換えてしまう。
人間が感情によってどれほど容易に倫理判断を揺さぶられる存在なのか。
セカイ系は、その危うさを鮮やかに描き出しているのではないだろうか。
もしも現実世界が危機ならば
ここまでの話はフィクションである。物語の中で主人公に感情移入し、その選択に納得することはできる。
しかし、その感情は現実でも通用するのだろうか。
見知らぬ少女と世界ならどうするか
仮に世界に滅亡の危機が迫っているとしよう。
そして世界を救う方法はただ一つ。見知らぬ少女が犠牲になることである。
あなたは少女のことを何も知らない。顔も、性格も、年齢も知らない。
あなたは世界と「見知らぬ少女」のどちらを選ぶだろうか。
もちろん、世界には「自分自身」や「自分の家族・大切な人」も含まれる。
おそらく多くの人は世界を選ぶはずだ。
少女との間に特別な関係はなく、守るべき理由も存在しないからである。
ウィリアムズの言葉を借りるなら、ここには親密圏の倫理が入り込む余地がほとんどない。
私たちは、少女に対して申し訳なさを感じながらも「世界のために犠牲になってほしい」と考えるだろう。
「そんなわけがない」と否定できる人はいるだろうか?
もちろん、だからといって1人の命が軽いわけではない。私たちは誰もが悲しみ、悲嘆にくれるだろう。
しかし現実の社会は、常に個人の幸福と全体の利益を天秤にかけながら運営されている。
見知らぬ少女と世界なら、多くの人は世界を選ぶ。
セカイ系が特殊なのは、その「見知らぬ少女」が、主人公にとってかけがえのない存在になっている点である。
つまり重要なのは、犠牲になる者と親密であるか、否か。
現実の倫理と個人の感情の対立
続けて考えてみたい。
もし世界の命運を握る少女が、第三者の手によって逃亡させられたら、私たちはその行為をどう評価するだろうか。
おそらく多くの人は、その行為を肯定しない。
なぜなら、たった1人を守るために世界全体を危険へさらしたことになるからだ。
そこでは少女を助けた人物は「世界より個人を優先した利己的な存在」として批判されるだろう。
しかし、別の視点から見たらどうだろうか?
その人物は、本当に世界を滅ぼしたかったわけではない。
ただ、自分にとって大切な人を救いたかっただけかもしれない。
社会的な倫理から見れば許されない行為であっても、当人の感情や関係性の中では切実な選択だった可能性がある。
ここには「世界全体の利益」を重視する倫理と、「目の前の大切な誰か」を守ろうとする感情の衝突がある。
しかし一方で、「世界を救うべきだ」という主張もまた、完全に感情から自由なわけではない。
私たち自身もまた、自分の未来や日常を守りたいという願いを抱えているからだ。
身内びいきは社会倫理にならない
もっとも、親密圏の倫理には明確な限界も存在する。
たとえば、ミステリー小説や現実の裁判では、親族によるアリバイ証言は慎重に扱われる。
家族や恋人には利害関係があり、「大切な人を守りたい」という感情が判断に影響すると考えられているからだ。
言い換えれば、私たちは「身内ならかばうかもしれない」と半ば当然のように理解している。
しかし同時に、その感情を社会全体のルールにしてしまうことはできない。
もしその論理が許されるなら、司法制度が成り立たなくなるのは目に見えている。
私たちは、社会全体の利益を重視する倫理と、身近な誰かを優先したいという感情のあいだで生きている。
そして「社会全体の利益を重視する倫理」を利用する個人的な感情もまた、否定することができない。
人が持つ「感情と倫理」の両者を完全に両立させる答えを、人はいまだ見つけられていないのである。
セカイ系は倫理の限界を描く
現実社会では、私たちは「身内びいき」を抑え込み、普遍的な倫理に従って生きることを求められる。
しかし、セカイ系というジャンルは、あえてその抑え込んだ感情を極限まで増幅させる。
「もし世界と天秤にかけられたら、君は本当に普遍的な倫理を選べるのか?」と私たちを揺さぶる。
セカイ系が描く「世界か、きみか」という破綻した選択肢は、荒唐無稽なファンタジーかもしれない。
しかし、人間は普遍的な道徳だけで生きるにはあまりに感情的だ。
かといって、個人的な感情だけで生きるにはあまりに社会的な存在である。
セカイ系というジャンルは、私たちが抱える倫理の限界(ジレンマ)を映しているのかもしれない。
免責事項
私は心理学や倫理学の専門家ではなく、診断や助言を行う立場にはありません。
本記事は研究や書籍、筆者の経験をもとにした参考情報です。
内容を鵜呑みにせず、ご自身の感覚を大切にしながらお読みください。
参考文献
【恥と運命の倫理学】
バーナード・ウィリアムズ(著)河田健太郎・杉本英太・渡辺一樹(訳)慶應義塾大学出版会:2024年
セカイ系A(タイトルヒント)
セカイ系の構造(世界のためにきみを失う)を持つ、有名な日本のライトノベル
セカイ系B(タイトルヒント)
セカイ系の構造(世界を捨ててきみを救う)を持つ、有名な海外のアクションゲーム
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