「死とは何か?」
私たちは死を恐れる。
そして、その恐怖に答えようとするかのように世界中の多くの宗教は「死後の世界」について語っている。
復活、天国と地獄、輪廻転生──形は違っても「死の先」を描こうとする点は共通している。
また、死は哲学においても古くから重要なテーマであり、多くの哲学者がそれぞれの答えを示してきた。
死について語った代表的な哲学者
古代ギリシャのプラトン
ヘレニズム期のエピクロス
現代哲学者のシェリー・ケーガン
では、形而上学的な存在を認めない唯物論者である私は、「死」をどのように考えているのか。
そもそも死について考える事に、意味はあるのだろうか?
この記事では哲学の考え方を手がかりにしながら、私自身の死生観について語りたい。
最後に「今をどう生きるか」という人生の指針について考えていく。
目次
私は「死」を恐れてはいない
結論から言うと、私は「死そのもの」自体を恐れてはいない。
私を「私」にしているのは何か
その理由を説明する前に、まず私が考える「私とは何か」という前提を紹介したい。
哲学(主に分析哲学)では、自己の同一性について大きく三つの立場がある。
それが、身体説・魂説・人格説である。
私を私たらしめるのは何か?
身体説:同じ「肉体(特に脳)」が維持されていることが、同一人物である条件とする立場。
魂説:肉体や人格が変わっても、不可視の「魂」が同一であれば同じ人物だとする立場。
人格説:記憶や性格、価値観などの「人格」が私を形作ると考える立場。
身体説と人格説は、現代の生物学や神経科学とも親和性の高い考え方である。
一方、魂説は宗教や形而上学を前提とする立場だ。
魂説には、宗教における霊魂だけでなく、プラトンのイデア論やデカルトの心身二元論なども含まれる。
私は科学的(生物学、進化論)な世界観を重視しているため、身体説と人格説を支持している。
神の存在や霊魂だけでなく、占いやエーテル、スピリチュアルな概念についても、私は採用しない立場である。
スピリチュアルな潜在意識(引き寄せの法則)も同様ニャ。
私は人格を支持するが、身体も重要である
私がもっとも重視しているのは「個の人格」である。
1948年に国連で採択された世界人権宣言が掲げる考え方に、私は深く共感している。
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
外務省『世界人権宣言第一条』
しかし、介護福祉士として働く中で、「その人らしさとは何か」という問いに何度も向き合ってきた。
人格説では、その人の記憶や価値観、思考、感情といった心理的な連続性を重視する。
では、認知症によってそれらが大きく変化した人は、以前とは別人になってしまうのだろうか?
認知症では、昨日の出来事を覚えていなかったり、感情のコントロールが難しくなったりすることがある。
人格だけを基準に考えるなら「その人らしさ」が失われたように見えてしまう場面もある。
しかし、介護の現場でその人を前にすると、そのような考え方だけでは向き合えない。
どのような状態になっても、その人はその人であり続けるという倫理観を私は持っている。
その意味で、身体説には人格説にはない重要な視点がある。
だから私は、自分自身を理解するときは人格説を重視しながらも、他者と向き合うときは身体説も大切にしている。
唯物論から見た私の死生観
前置きが長くなったが、私の死生観は、エピクロスの次の言葉に集約される。
エピクロスの死生観
私たちにとって恐ろしいはずの死は、実は何でもない。
なぜなら、私たちが存在するときには死はまだなく、死が訪れたときには私たちはもう存在しないからである。
エピクロス『メノイケウス宛の手紙』より引用
私もこの考え方を支持している。
唯物論を前提とするなら、死とは人格や身体の働きが終わることであり、それ以上でも以下でもない。
もちろん、死は救いでもなければ恐ろしいことでもない。死はただの死である。
もちろん、この考え方には直感的に受け入れにくい点もある。
人格が消えてしまうことは、本当に怖くないのか。
死は「悪いこと」ではないと言い切れるのか。
生きていれば得られたはずの人生は、失われることにならないのか。
次章では、エピクロスの考え方を手がかりにしながら、これらの疑問について私なりの答えを考えていきたい。
死は本当に「悪いこと」なのか
では、なぜ私は死を悪いものだと考えていないのだろうか。
良い・悪いは経験から生まれる
経験主義を代表する哲学者ジョン・ロックは、人間の知識や人格の形成において経験を重視した。
哲学はもっと複雑だが、ここでは単純化して「人格は経験によって形作られる」という前提に立って考えてみたい。
その場合、人格にとっての「良い」「悪い」とは何だろうか。
苦痛は、苦しいという経験である。
悲しみは、悲しいという経験である。
喜びは、楽しいという経験である。
私たちが「良い」「悪い」と判断するものの多くは、このような経験を通して現れる。
もちろん、道徳や法律のような客観的な善悪を論じる立場もある。
しかし今ここで考えているのは、人格にとっての善悪、つまり「本人にとって何が良いか悪いか」という問題である。
経験は生きているあいだにしか生じない。そして死とは、経験そのものが終わることである。
もしそうなら、死は人格にとって経験される出来事ではない。
経験されない以上、それは「良い経験」でも「悪い経験」でもないことになる。
寝ている間に財産を盗まれる → 盗まれたことを知ったときに苦痛を経験する
知らないところで裏切られる → 裏切りを知ったときに悲しみを経験する
死後に名誉を傷つけられる → もはや経験する主体が存在しない
だから私は、少なくとも人格の観点から見れば、死そのものは「悪い経験」にはなりえないと考えている。
「人生を剥奪される」という考え方
ここまでの議論だけなら「死は良くも悪くもない」という結論になる。
しかし、それでも私たちは死を恐れる。
生物として備わった根源的な恐怖を、理屈だけで乗り越えることはできるのだろうか?
この問いに対して一つの答えを示したのが、哲学者トマス・ネーゲルの剥奪説である。
死は、その後に得られたはずの人生を奪うから悪い。
この考え方は直感的にも理解しやすい。
20歳で亡くなる人と90歳まで生きる人では、多くの人が前者の方が不幸だと感じるだろう。
ただ、私はこの考え方には一つ疑問がある。
剥奪説は「もし生きていたら得られたはずの人生」を前提としている。
しかし、その人生は実際には経験されることのない可能性である。
哲学では、痛みや喜び、愛しさのような主観的経験をクオリアと呼ぶ。
クオリアは常に「今ここ」の私だけが経験するものであり、経験されなかった未来の人生には存在しない。
だから私は、「得られたはずだった人生」を主観的な損失として考えることには限界があると思っている。
もちろん社会倫理や道徳の観点から見れば、若くして命を失うことが大きな損失であることは否定しない。
それはある種の「不平等な剥奪」であるが、個人の人格にとっての「経験の良し悪し」とはまた別の話である。
本来与えられるべき権利や機会が不当に奪われることと、権利に満足しているかはベクトルが違うのだ。
「不平等な剥奪(客観的)」と「人格の経験(主観的)」
この二つをごっちゃにしてはいけないニャ。
死に至る過程と残される者
ここまで私は、「死そのもの」は人格にとって良くも悪くもないと述べてきた。
しかし、それは死に至る過程まで否定するものではない。
暴力や拷問、病苦は、人が生きている間に経験する苦痛である。だから、それらは明らかに悪い。
悪いのは死ではなく、死へ至る苦痛なのである。それは未だ経験したことがない未知である。
もう一つ、死が悪いと感じる理由がある。それは、大切な人との別れだ。
家族や友人を失えば、悲しみや喪失感を経験する。この悲しみは現実であり、決して軽視されるものではない。
死が悪いのではなく、死によって生者が苦しむのである。
だから私は、亡くなった人へ祈りを捧げたり、思い出を大切にしたりする営みを否定しない。
魂説もその意味で尊重されるべきだと思っているニャ。
ただ、それは亡くなった人のためというより、生きている私たち自身を支えるための営みなのだと思っている。
メメント・モリが教えてくれること
メメント・モリ(Memento mori)は、ラテン語で「死を忘れるな」や「死を想え」という意味の言葉だ。
自分がいつか死ぬことを意識し、「だからこそ今という時間を大切に生きよう」という警句である。
求め続ける人生に終わりはない
ゲーテ最高の傑作『ファウスト』に登場する悪魔メフィストフェレスは、ファウスト博士に賭けを申し出る。
『ファウスト』のあらすじ
あらゆる学問を究めても人生に満足できなかったファウスト博士は、悪魔と契約を結ぶ。
「この瞬間こそ永遠に続いてほしい」と心から満足した瞬間が訪れたら、博士の魂は悪魔のものになる。
博士は若さや恋愛、権力、富など様々な経験を重ねるが、生涯を通して幸福を追い求め続ける。
この物語が象徴しているのは、人間の欲望には終わりがないということである。
もし幸福を「もっと、もっと」と求め続けることだと考えるなら、人生は永遠に完成しない。
だから私は、「人生の最後に何を思うか」が重要なのだと思っている。
さて、博士は最期に何を思ったのだろうか?
「まずまずの人生」と言える終わり方
渇望し続ける人生は、きっと刺激に満ちている。しかし、それは振り子のような人生でもある。
大きな快楽を求めれば求めるほど、それを失う苦痛もまた大きくなる。
その意味では、トマス・ネーゲルの「剥奪説」にも一理ある。
人生を強く求めるほど、死は「得られたはずの人生を奪うもの」と感じられるからだ。
もちろん、「やり切った人生」を目指すこと自体は決して悪いことではない。これは価値観の違いである。
ただ、私にはその生き方は合わない。
私が目指したいのは、「最高の人生」ではなく、「まずまずの人生」である。
圧倒的な勝利よりも、絶対に負けたくない人生を私は選びたい。
健康を維持し、本を読み、考え、心を動かす物語に出会い、穏やかに暮らせる環境を整える。
そんな日々を積み重ねた先で「まずまずの人生だった」と静かに振り返ることができるなら、
それは私にとって十分に幸福な人生なのである。
メメント・モリ・ウェルビーイング
人生において大切なのは、私たちが「いつか必ずいなくなる存在」であることを忘れないことだ。
だから私は、メメント・モリ(死を忘れるな)という言葉を大切にしている。
死を意識することは人生を悲観することを意味しない。
「限りある今」を大切にするための姿勢だ。
そしてもう一つ大切なのは、日々の暮らしの中で持続的な幸福を育てることである。
心理学では、このような幸福をウェルビーイングという。
健康、人間関係、没頭、意味、成長など、幸福を支える要素は科学的にも研究されている。
死を見つめることと、幸福に生きることは矛盾しない。
私はこれからも、メメント・モリを胸に刻みながら、ウェルビーイングを育てる人生を歩んでいきたい。
免責事項
私は心理学や医療の専門家ではなく、診断や助言を行う立場にはありません。
本記事は、研究や書籍、哲学的な考え方、そして筆者自身の経験をもとにまとめた参考情報です。
死生観や人生観にはさまざまな考え方があります。倫理的な正解を押し付ける内容ではありません。
本記事の内容を鵜呑みにせず、ご自身の価値観や状況と照らし合わせながらお読みください。
心身の不調や強い不安が続く場合は医療機関などの専門家へ相談することもご検討ください。
具体的な相談先については、ページ下部の相談窓口にまとめています。
参考文献
【エピクロス: 教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)】
エピクロス(著)出隆・岩崎允胤(訳)岩波書店:1959年
【新装版 コウモリであるとはどのようなことか】
トマス・ネーゲル(著)永井均(訳)勁草書房:2023年
【ジョン・ロック 神と人間との間(岩波新書)】
加藤 節(著)岩波書店:2018年
【「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版】
シェリー・ケーガン(著)柴田裕之(訳) 文響社:2019年
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