MENU
内向型ラボの4つのテーマ
クロ

どんなテーマから読みたいニャ?

内向型が、無理せず「自分らしさ」を取り戻すための自己心理メディア

新着記事

人気記事

カテゴリー

自己紹介

内向型ラボの研究所

いじめや不登校を経験しました。
そのなかで人付き合いに慎重な「人見知りの内向型」として成長してきました。

長いあいだ「生きづらさ」を感じてきましたが、少しずつ過去を受け入れ、いまは自分らしいペースで前を向いています。

このブログ 【内向型ラボ ― わたしらしく生きるための自己心理メディア】 は、内向型が無理をせず安心して暮らすための工夫や考え方を、私自身の体験や心理学・科学の知見とともにまとめた場所です。

同じように悩む方にとって日々の中で小さな幸せを見つけるきっかけになれば嬉しいです。

運営者の学びと資格

介護福祉士(2024年取得)
介護士として5年間現場に従事し、人の心や生活に寄り添う経験を積みました。
メンタルケア心理士®(2025年取得)
心理学の基礎から応用まで体系的に学び、心の健康に関する理解を深めました。

共感は本当に善なのか|道徳心と理性から人間の判断を考える

共感・道徳心・理性をテーマに、群衆の中で一人が思い悩む様子を描いた抽象的なイラスト

「共感能力を高めよう」「共感は良いことだ」

こうした言葉を、一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。

ビジネス書や自己啓発書では、「相手の気持ちになって考えること」の重要性が繰り返し語られている。

相手の気持ちになって考えよう。

コミュニケーションでは共感能力が重要だ。

相手の痛みが分かることは、良いことだ。

実際、「共感は善である」という考え方は、現代社会では半ば常識のように受け入れられている。

しかし、本当に共感は常に良いものなのだろうか?

共感は人を助ける力になる一方で、判断を偏らせたり、誤った結論へ導いたりすることはないのだろうか。

それを知るためには、共感だけを見ても判断できず、比較対象として道徳心と理性も考える必要がある。

この記事では、それぞれが人の判断にどのような影響を与えるのかを心理学や思考実験を交えて考えていく。

目次

共感は本当に善なのか?

人の共感には、脳の「ミラーニューロン」が関わっている可能性があると考えられている。

ミラーニューロン:他者の行動を、自分が行動しているかのようにシミュレーションする神経細胞

これだけを読むと、「共感は思いやりや利他性の源泉なのだ」と考えたくなるかもしれない。

しかし、現在の研究ではそのように単純な話ではないと考えられている。

たとえば、アカゲザルはミラーニューロンを持つにもかかわらず、非常に攻撃性が高いことでも知られている。

つまり、「他者を理解する仕組み」と、「他者を助けようとすること」は別の問題なのである。

ハインツのジレンマ|正解のないモラル

ハインツのジレンマという、人の道徳心を試す思考実験が存在する。

ハインツのジレンマ

ある女性が重い病気を患い、このままでは命を落としてしまう。

女性を救える薬は一つだけ。

しかし、その薬は非常に高価(法外な値段)で、夫のハインツには到底支払える金額ではなかった。

ハインツは薬屋に値引きや後払いを頼み込むが断られる。彼は、妻の命を救うために薬を盗んでしまった。

あなたは、ハインツの行動は正しかったと思うだろうか。

おそらく、多くの人はハインツに共感を覚えるのではないだろうか。私自身もその一人である。

一方で、「それでも窃盗は許されない」と考える人もいるだろう。

この思考実験には唯一の正解があるわけではない。

人によって命を優先するのか、法や公平性を優先するのかで結論は変わる。だからジレンマなのだ。

ハインツに対する「同情」は、共感の働きによるものだろう。

法や社会全体への影響まで考慮して判断しようとするのは、道徳心や理性の働きと考えられる。

共感は立場によって結論を変えてしまう

私たちは、同じ出来事でも立場によって受け取り方や記憶の仕方が変わることがある。

心理学者のロイ・バウマイスターの行なった「怒りとエピソード」に関する有名な実験がある。

バウマイスターの実験

被験者たちに過去に自分が犯した(または被った)対立の話を、以下の3つの異なる立場から記述させる。

加害者としての視点: 自分が誰かを傷つけたり、怒らせたりした話。

被害者としての視点: 誰かに傷つけられたり、不当に怒られたりした話。

第三者としての視点: 当事者以外の客観的な観察者。

この実験では、同じような対立(ケンカ、裏切り、いじめなど)を扱っている。

しかし、立場が違うだけで、出来事の解釈は大きく変化していた。

実験結果

加害者:「仕方がない(状況のせい)」「大したことじゃない(過小評価)」「相手にも非がある(責任転嫁)」

被害者:「相手は悪意を持っていた(過大評価)」「傷が癒えていない(長期化)」「自分には非がない」

第三者:双方の状況的な要因(言い訳)と、実際の行動(結果)を最もバランスよく評価した。

後から客観的な事実と照らし合わせると、第三者の記録が最も事実との一致度が高かった。

これは当事者に自己奉仕バイアス(無意識に自尊心を保つ心理)が作用しているからだと言われている。

おそらく、誰もが次のような心理的経験をしたことはあるのではないだろうか。

自分がなんらかの「加害者」になってしまったとき、自分以外の原因を探そうとする。

被害者になったとき、相手の過去の失敗まで持ち出して非難したくなる。

自分が好きなスポーツチームの反則はあまり目に入らず、相手チームの反則ばかりが目に入る。

これらも自己奉仕バイアス、あるいは「根本的な帰属の誤り」である程度は説明できる。

つまり、私たちは出来事そのものではなく、「自分の立場から見た物語」を信じやすいのである。

共感が映し出す「自己奉仕バイアス」

では、「ハインツのジレンマ」と「自己奉仕バイアス」を合わせて考えると、何が見えてくるのだろうか。

共感とは、相手の立場や感情に寄り添い、その視点から物事を捉えようとする能力と言える。

その一方で、第三者として距離を置き、客観的に状況を見つめる視点は弱くなりやすいのではないだろうか。

ハインツの気持ちを考えれば、彼の行動を正当化したり、情状酌量の余地があると感じたりするのは自然なことだ。

では逆に、「薬屋の視点」からこの物語を見たらどうだろう。

ハインツのジレンマ(薬屋の視点)

薬屋は、すり鉢の青い粉末を見つめていた。十年の歳月と全財産200万円を投じて完成させた新薬だ。

「200万円で売ってくれ。妻が死ぬ。足りなければ、あとで必ず払う」

ハインツは懇願する。しかし薬価は400万円。それは長年の研究の成果であり、自分の夢でもあった。

「…断る。私が開発した薬だ。私は、その対価を受け取る権利がある」

借金の返済、次の研究費、そして「対価なき取引は社会の仕組みを壊す」という思い。

一人の命のために、十年の研究を差し出すことはできない。法外な値段は仕方がなかったのだ。

男は去り、その夜、裏口のガラスが割られた。

薬屋の視点を知ることで、薬屋の主張(法外な値段の理由)にも一理あると気づき、判断が揺らぐはずだ。

薬屋には薬屋の、譲れない正義と現実があるかもしれない。

共感は他者への感情移入を促す。しかし、情報の偏りや事実関係まで見抜く能力ではない。

だからこそ、共感に頼るだけでは、巧妙に演出された物語の裏側にある事実を見抜けないことがあるのだ。

極端な例では、口の上手い加害者は被害者(に見える物語)を装い、共感を集めて味方を増やすだろう。

「1人の悲劇」と「100万人の統計」

「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計に過ぎない」

ソ連の独裁者スターリンの言葉として知られている。この言葉は半分正しく、半分は誤解を招く表現でもある。

私たちが強く心を動かされるのは、「1人」という数字ではなく、その人の人生や物語を具体的に想像できるからだ。

もし100万人一人ひとりの人生や家族、夢や苦しみを知ることができたならどうだろう。

その100万人もまた、耐えがたい悲劇として感じられるかもしれない。

おそらく今この瞬間も、世界のどこかでは戦争や飢餓によって多くの命が失われている。

しかし私たちは、その数字だけで心が押しつぶされるほど悲しむことはない。

人は抽象的な数字よりも、具体的な物語に強く反応する認知の特徴を持っているからである。

心理学者ダニエル・カーネマンらは、このように物語性が判断へ与える影響を示す研究を数多く行っている。

連言錯誤の実験

人物像:リンダ(31歳・独身・社会正義に関心があり、学生時代は反核運動に参加)

質問:リンダは「銀行員」と「銀行員でありフェミニスト活動家」のどちらがよりありそうだろうか。

この実験では、多くの人は後者を選んだ。

しかし論理的には、「銀行員」である確率の方が、「銀行員かつフェミニスト活動家」である確率より必ず高い。

私たちは、情報量が多く物語を想像しやすい説明ほど、「もっともらしい」と感じてしまう。

実際、この傾向は心理学者ポール・スロヴィックの研究でも確認されている。

識別可能な犠牲者効果(Identifiable Victim Effect)

研究では「何百万人が飢餓に苦しんでいる」という統計だけを示す場合よりも、

「飢餓に苦しむ一人の少女」の写真や名前を提示した方が、多くの寄付が集まることが示された。

つまり、人は数字そのものではなく、「顔の見える一人」に対して強く共感する傾向がある。

倫理的な立場はともかく、救える命の数を考えれば何百万人を助ける方が望ましいという考え方は十分成り立つ。

しかし、共感は公平さよりも、目の前の物語へと引き寄せられる。

私たちの共感は、数字ではなく「物語」に強く反応するようにできている。

だからこそ、「目の前の一人」を助ける強い動機になる一方で、「遠くにいる100万人」の苦しみには鈍感になる。

このような現象は、難病の子どもへの募金活動でも見られる。

テレビやSNSで一人の子どもの名前や写真、家族の思いが紹介されると、短期間で多額の寄付が集まることがある。

もちろん、その寄付自体を否定するものではないが、同じ病気で支援を受けられない人もたくさんいる。

同じ金額でもっと多くの命を救える選択肢があることは、私たちの共感だけでは見えにくい。

道徳心は正義にも狂信にもなり得る

人は誰もが、自分なりの「正しい」「間違っている」という判断基準を持っている。

それは他人を思いやる気持ちや社会の秩序を守る力にもなる一方で、ときには対立や排除を生み出すこともある。

この記事では、このような「自分が正しいと信じる感覚」を「道徳心」と呼ぶことにする。

道徳心は「正しい」と信じる力である

「何が正しいか」という判断は人によって異なり、その背景には文化や宗教、法律などさまざまな要因がある。

ここでは、人が他者と関わる際にどのような基準で「正しい」と感じるのかを見ていこう。

たとえば人類学者アラン・フィスクは、人間関係には大きく4つの基本的なルールがあると考えた。

関係性モデル理論(Relational Models Theory)

①共同体共有:集団内の人間を区別せず、全員を「同じ仲間」として扱う。(家族など)

②権威序列:上下関係、ステータス、リニアな序列(上司と部下・教師と生徒など)に基づく。

③平等対等:1対1の対等なバランス(友人・恋人など)や互恵性を重視する。

④市場値付け:感情や個人の身分を排し、比率、計算、契約、そして公式な規則(法)に基づく。

たとえば共同体共有に見られる「譲り渡し」を、市場値付けモデルでは使用できない。

友人(平等対等)に対するお礼に、現金(市場値付け)を突き出すと、かえって関係がこじれる。

バレンタインとホワイトデーで貸し借りのバランスを取ろうとするのは「平等対等」のモデルに基づく。

「仲間には優しくするべきだ」「教師の言うことは聞くべきだ」「対等な関係を築くべきだ」

私たちが「何が正しいか」を判断するとき、その背景にはこうした関係性のルールが影響している。

しかし、こうした道徳心は社会を支える一方で、「自分の正しさ」を絶対視すると、他者を裁く力にもなり得る。

道徳心はときに私刑や差別を正当化する

道徳心は他者との関係を円滑にする一方で、ときにはイデオロギーやナショナリズム、宗教的信念と結び付く。

エコーチェンバーにより、集団での排除や暴力を正当化することもある。

歴史を振り返れば、「自分たちは正しい」と信じた結果、多くの悲劇が生まれてきたことは周知の事実である。

異教徒(共同体共有の外側)を殺すことは神の意思だと信じられていた。

魔女狩りは社会を守るための正義(共同体共有の防衛)だと考えられていた。

テロ行為が宗教的な正義(共同体共有の正義)として正当化されることもある。

人種によって優劣(権威序列)があるという思想が「正しい」と信じられていた。

闘犬や闘熊など、現在では動物虐待と考えられる娯楽も、かつては当然の文化として受け入れられていた。

しかも、自分が正義を行っていると信じているときほど、自分の判断を疑うことは難しい。

前章で紹介した自己奉仕バイアスも働き「自分は正しい」という物語を作り上げてしまう。

「状況が悪かった」「相手に非がある」「避けることはできなかった」「当然の報い」

道徳心は人を善へ導く力でもある。しかし、それだけでは自らの正しさを疑えなくなることがある。

善意だけでは善い社会はつくれない

人によって「正しさ」の基準が異なる以上、道徳心だけで善い社会を築くことは難しい。

では、身近な人だけでなく、あらゆる他者に共感できれば解決するのだろうか。

目の前で泣いている人を見ると放っておけない。思わず慰めたり、助けたくなる。

ケガをして苦しそうに鳴く動物を見ると、心の底から助けたいと思う。

共感と道徳心がそろえば、理想的な社会が実現するようにも思える。

だが、現実はそれほど単純ではない。

共感能力は視野を狭くすることがあるかもしれないが、道徳心が視野を広めるわけではないからだ。

たとえば、飢えている野良猫にエサを与えることは、本当に正しい行動だろうか。

目の前の一匹を助けたいという共感や道徳心は自然な感情かもしれない。

しかし、その行動が長期的に猫の繁殖や近隣トラブルにつながる可能性もある。

エサを与えて人に慣れた猫を、その後も責任を持って飼育できるだろうか。

猫は繁殖力が高く、適切な管理がなければ短期間で数を増やし、地域の問題へ発展することもある。

飢えている野良猫の鳴き声を聞くと胸が痛む。胸の痛みを消すのに「エサを与える」のは正しい行いになり得る。

つまり、共感は道徳的な行動へと人間を突き動かす強力なエネルギー源になる。

ただしその道徳心は舞台照明に近い。野良猫(共感先)を助けること以外が目に入らなくなるのだ。

だからこそ、共感や道徳心だけでなく、その行動がもたらす結果まで考える『理性』が必要になる。

理性は偏りを補うが、万能ではない

私たち人間には、物事を抽象化して考える能力がある。

たとえば、「魚とカラスの共通点は何か」と聞かれれば、さまざまな共通点を見いだせる。

「どちらも脊椎動物である」「遺伝子を持つ生物である」「細胞からできている」など

こうした能力は単なる知識ではなく、目の前の出来事を一般化し、共通する原理や法則を考える土台となる。

理性とは、そのような知識や原理を現実の問題に当てはめ、複数の選択肢を比較・推論・検討する能力である。

理性は公平で長期的な判断を可能にする

「何百万人が飢餓に苦しんでいる」という統計情報と、「飢餓に苦しむ一人の少女」の写真と名前。

前述したように、多くの人は後者のほうに心を動かされる。

しかし理性は、何百万人という数字が意味する現実まで視野に入れ、公平な判断を促してくれる。

また、理性は目の前の出来事だけでなく、代替案や長期的な影響まで比較・検討することができる。

ハインツのジレンマで言えば、「薬屋と交渉できないか」「地域で支援できないか」といった選択肢も考えられる。

進化心理学者スティーブン・ピンカーは、印刷技術の向上や科学の発達が人々の思考に影響を与えたと考察している。

つまり、理性は生まれつきや本能だけで決まるものではなく、教育、読書、経験を通して育てることができる。

教育・読書・経験・科学は、人間に「目の前の出来事」や「身内の優先」だけでなく、

「社会全体への影響」「長期的な結果」「知らない他者の心情」などを理性的に考える機会を増やす。

理性は、例えその人の共感能力が弱くても、相手の気持ちや立場を論理的に推測することを可能にする。

そういった理性的な共感は「認知的共感」や「メンタライジング」と称される。

この記事では説明を簡潔にするため、これらをまとめて「理性的な推測」と呼ぶことにする。

「共感は善」「道徳心は良い」といった直感的に納得できる考え方も問い直すことができるのも理性である。

理性は当事者の視点から一歩離れ、第三者の立場から物事を比較・検討する力を与えてくれるのだ。

理性は直感を検証する力である

道徳心を鍛え、共感能力の代わりにもなる『理性』は良いものか。

そうとも言えない。なぜなら私たちの脳は「認知的倹約家」。すなわち「ケチ」だからである。

理性(推測や思考)を働かせるにはエネルギーを使用する。

疲労やストレスがあるときには、思考よりも直感的な判断に頼りやすくなることが多くの研究で示されている。

私たちは十分に考えるよりも、直感や経験則(ヒューリスティック)で素早く判断する傾向もある。

たとえば、多くの人が直感的に間違えてしまう「バットとボール問題」がある。

バットとボール問題

バットとボールを合わせて110円で買った。バットはボールより100円高い。

では、ボールはいくらだろうか?

多くの人は、直感的に「10円」と答えてしまう。

しかし、それではバットは110円となり、合計は120円になってしまう。

正解は、ボールが5円、バットが105円である。

人は最初に思いついた答えを、そのまま正しいと信じやすい。

理性は、その直感を立ち止まって疑い、検証するために働く。

つまり、理性とは直感を否定する力ではなく、直感を一度立ち止まって確かめる力なのである。

また、理性そのものは論理的思考の源泉ではあるものの、思考能力の「得手不得手」は人によって異なる。

抽象化能力、論理的思考、構造化能力、批判的思考など、理性にもさまざまな側面がある。

だからこそ、異なる知識や視点を持つ人と議論した方が、より良い結論に近づけることも少なくない。

理性は悪にも使われる道具である

理性は有用である。ただし、それ自体に善悪はない。

ミステリー小説の犯人が、緻密なトリックを考えるのも理性である。

共感を利用して人をだます計画を立てるのも理性である。

巨額脱税のスキームを考えるのも理性である。

独裁国家が効率よく監視社会を構築するのも理性である。

つまり、理性は目的を達成するための道具であり、それ自体が善悪を決めるわけではない。

また、理性による分析そのものが、特定の立場やイデオロギー、先入観に影響されることも珍しくない。

統計や科学を都合よく解釈したりすれば、自分の思い込みを強化してしまうこともある。

この記事で言えば、1人の悲劇に騙される大衆と「理性で俯瞰できる知的な私」という優越感だろうか。

理性は偏りを修正する力になる。

しかし同じ理性が、自分の信念(道徳心)をもっともらしく正当化するためにも使われる。

「理性は高い方がいい」という思い込み自体が、本末転倒なのである。

だからこそ、理性そのものを絶対視するのではなく、自らの前提や思い込みを疑い続ける姿勢が欠かせない。

共感・道徳心・理性は互いに補う

共感能力は悪いものではない。「優しさ」を嫌う人は少ないだろう。

しかし、ときに当事者の気持ちに寄り添いすぎるあまり、客観的な視点を見失ってしまうことがある。

道徳心もまた重要である。自分の正しさを信じられなければ、人は行動を起こせない。

しかし、その「正しさ」を絶対視すれば、他者を顧みない狂信へと変わる危険もある。

理性は偏りを補い、より公平で長期的な視点を与えてくれる。

しかし、それを働かせるには認知的なコストがかかり、さらに理性そのものは善悪を決めるものではない。

感情(情動)を排した「冷徹な理性」は、時に最も効率的な「弱者切り捨ての合理化」を導く。

だからこそ、結論はシンプルである。

共感能力を絶対視してはいけない。道徳心や理性も同様に盲信するものではない。

それぞれの長所と短所を理解し、互いに補いながら判断することが大事である。

とはいっても、共感、道徳心、理性のバランスを常に意識するのは難しい。

けれど、どの場面で共感し、何を正しいと感じ、どのように判断しているのかを、ときどき振り返ることはできる。

自身の持つ特性を善悪で判断するよりも、それらと上手に付き合っていくことの方が大切なのではないだろうか。

少なくとも、人間関係において「共感能力が高い人は優れている」といった単純な考え方に私は慎重でありたい。

免責事項

本記事は、各種データや社会的な視点をもとに、筆者個人の見解として考察をまとめたものです。

取り上げたテーマ(共感・道徳心・理性)には多角的な議論や様々な立場が存在します。

また、記事の内容は客観的な正解や絶対的な基準を保証するものではありません。

あくまで物事を考える上での一つの視点として、ご自身の価値観や判断を大切にしながらお読みください。

参考文献

【敏感すぎる私の活かし方 高感度から才能を引き出す発想術】
エレイン・N・アーロン(著)片桐恵理子(訳)パンローリング:2020年
【暴力の人類史(上・下)】
スティーブン・ピンカー(著)幾島幸子・塩原通緒(訳)青土社:2015年
【ファスト&スロー(上・下)
ダニエル・カーネマン(著)村井章子(訳)早川書房:2012年

コメント

コメントする

目次