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内向型が、無理せず「自分らしさ」を取り戻すための自己心理メディア

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内向型ラボの研究所

いじめや不登校を経験しました。
そのなかで人付き合いに慎重な「人見知りの内向型」として成長してきました。

長いあいだ「生きづらさ」を感じてきましたが、少しずつ過去を受け入れ、いまは自分らしいペースで前を向いています。

このブログ 【内向型ラボ ― わたしらしく生きるための自己心理メディア】 は、内向型が無理をせず安心して暮らすための工夫や考え方を、私自身の体験や心理学・科学の知見とともにまとめた場所です。

同じように悩む方にとって日々の中で小さな幸せを見つけるきっかけになれば嬉しいです。

運営者の学びと資格

〇介護福祉士(2024年取得)
介護士として5年間現場に従事し、人の心や生活に寄り添う経験を積みました。
〇メンタルケア心理士®(2025年取得)
心理学の基礎から応用まで体系的に学び、心の健康に関する理解を深めました。

人はなぜ意味を求めるのか|進化と哲学から考える生きる意味

朝日に照らされた山頂に積み重なる石と、遠くに広がる山並みを描いた風景画

「人はなんのために生きるのか」

誰もが一度は、そんな問いを考えたことがあるのではないだろうか。

生きる意味とはなにか。

生まれてきたことに意味はあるのか。

小説や映画でも繰り返し描かれるこの問いに対する答えは様々である。

生きる意味など、最初から存在しない。

生きる意味は、自分でつくるものだ。

他者のため、幸福になるため。社会に貢献するため。など

先に結論を述べると、私はどちらかといえば「生きる意味は自分でつくるものだ」という立場に近い。

しかし、この記事で考えたいのは「何のために生きるべきか」という問いではなく、もっと根源的なもの。

そもそも、人はなぜ物事や人生に意味を求めるのだろうか。

ただし、言葉が表す内容、出来事の原因や理由、物事の価値など、「意味」の使われ方はさまざまだ。

この記事では、人間が物事や出来事をどのように解釈し、そこにどのような価値を見いだすのか。

そして、そうした意味づけが私たちの生き方にどのような影響を及ぼすのかを考察していきたい。

目次

人はなぜ「意味」を求めるのか

私たちは、日常のさまざまな出来事に意味を見いだそうとする。

物語から「著者のメッセージ」を読み取ろうとする。

失敗を経験すれば「これは試練なのだ」と解釈して納得する。

過去に悪い行いをした人が不幸な目に遭うと、「罰が当たったのだ」と考えることもある。

他にも、人は因果関係がない出来事同士を結びつけ、そこに何らかの意味を見いだすことも珍しくない。

クロ

いわゆる「ゲン担ぎ」もそうニャ。

武士道・騎士道と生きる意味

人が意味を求めることを考えるうえで、分かりやすい例の一つが、日本の武士道や西洋の騎士道だろう。

これらの理念では、主君への忠誠や名誉、使命を果たすことが理想的な生き方として重んじられてきた。

武士道や騎士道の価値観は、ときに自らの命よりも優先される。

武士の世界では、生き延びるよりも名誉を守るための切腹(自死)が行われることも多々あった。

山本常朝の『葉隠』にある「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉はあまりにも有名

また、現代でも「名誉ある、意味ある生き方(死に方)」というのは関心の元になっている。

忠義を貫いた赤穂浪士を描く忠臣蔵。

幕末の動乱を生き、士道を貫いた新選組。

こうした生き方は何百年も人々の関心を集め続けている。

西洋の騎士道にも、名誉や誇りを重んじる精神があった。

騎士道に関連して語られることのある句に「Malo mori quam foedari(不名誉よりも死を)」というものがある。

時代や地域によって武士道も騎士道も多様であり、人によって解釈が大きく異なることもある。

すべての武士や騎士が同じ価値観を持っていたわけでもないだろう。

ただ、忠義や名誉、規範といった価値観が、生き方を方向づける大きな意味を持っていたことは確かだ。

クロ

どちらも「名誉を貴ぶ」という共通点があるニャ。

その意味は、ときに自らの命さえ差し出すほどに重いものだ。

人はポジティブな意味に惹かれる

大物、傑物、英傑、卓越。

こうした言葉を聞いて、真っ先に思い浮かべるのは、どのような人物だろうか。

私の場合は、自分なりの信念を持ち、力や知性においてずば抜けた人物というイメージがある。

そこには、周囲の人々からも一目置かれ、何らかの点で高く評価されているという印象が伴う。

その評価の基準となるのは、力や知性、器量、勇気、度量の大きさ、先見の明などだ。

多くの人は、歴史に名を残すような人物に贈られる言葉に、肯定的な意味を見いだすのではないだろうか。

少なくとも、これらは一般に、侮蔑や否定ではなく、称賛や尊敬を表す言葉として使われている。

だとしたら、私たちは自分の人生にも、こうした肯定的な意味を求めていると考えていてもおかしくはない。

現代人でも、成功、充足、徳、影響力を求めている人は決して少なくはない。

意味づけは脳の本能なのか

なぜ人は、歴史に名を残すような偉業や、称賛される生き方に惹かれるのだろうか。

なぜ私たちは、物事に意味を見いだし、とりわけ肯定的な意味を求めようとするのだろうか。

進化が生んだ意味づけの機能

人間が物事に意味を見いだす性質を理解するには、進化の観点から考えてみる必要がある。

人類の脳は、農業革命や産業革命を経て急速に変化した現代社会に合わせて進化できているわけではない。

私たちの認知の仕組みには、長い進化の歴史のなかで形成されてきた性質が残っている。

人類の祖先が二足歩行を始めたのは、数百万年前にさかのぼる。

現生人類であるホモ・サピエンスが誕生したのは、約30万年前とされている。

それに対して、文明や社会の仕組みが大きく変化したのは、人類の歴史のなかでは比較的最近のこと。

人類の長い歴史の大部分において、人々は狩猟採集を中心とした生活を送ってきた。

そのような環境では、目の前の出来事から危険の可能性を読み取り、素早く判断する能力が生存に役立ったと考えられる。

クロ

脳の闘争・逃走システムは有名だニャ。

たとえば、周囲に動物の気配がないはずなのに、草むらが突然揺れたとしよう。

そこには、風が吹いただけかもしれない。しかし、獰猛な肉食獣が潜んでいる可能性もある。

① 肉食獣がいる可能性を考え、念のためその場から離れる。

② 肉食獣がいるとは考えず、そのままその場にとどまる。

どちらの行動が、生き延びるうえで有利に働く可能性が高いだろうか。

もちろん、草むらが揺れたからといって、必ずしも肉食獣がいるわけではないだろう。

しかし、もし本当に肉食獣が潜んでいた場合、危険を見逃すことは命取りになりかねない。

一方、危険がないのに逃げた場合、失うのは時間や労力で済むかもしれない。

危険を見逃す損失が、危険を誤って想定する損失よりも大きい状況では、

危険の可能性を広めに見積もることが、生存に有利に働きうる。

人間は目の前の現実をそのまま受け取るだけではなく、原因や、これから起こりうる出来事まで推測している。

草むらの揺れを、単なる風の動きとして捉えることもできる。

しかし、そこに「肉食獣が潜んでいるかもしれない」という解釈を加えれば、行動を変える理由が生まれる。

このように、目の前の情報から原因や結果を推測して行動することは、生存にとって重要な機能だったと考えられる。

さらに、一緒に狩りや採集をしていた仲間が、草むらを気にせず、恐れていなかったとしたらどうだろうか。

周囲の人々が警戒していないことを手がかりに、「危険はないのかもしれない」と判断する可能性もある。

この場合は、他者の反応から解釈して意味づけを行なっていると考えられる。

クロ

いわゆる「多数派同調バイアス」だニャ。

過去の「肉食獣ではなかった」という経験から「今回も大丈夫だろう」と思い込んでしまうこともあり得る。

この場合は、自身の過去の経験やから「解釈と意味づけ」を行なっていることになる。

クロ

これは「正常性バイアス」と言われているニャ。

意味づけには、他者の行動や過去の経験、さらには本人の性格的な傾向(楽観性・悲観性)なども関与している。

おそらく、私が想像している以上に、意味づけの仕組みは複雑なのだろう。

それでも、私たち人間が日常的に物事の原因や理由を探り、そこに意味を見いだそうとすることは確かだ。

こうした意味づけの能力が、生存に役立ってきた可能性は十分に考えられる。

生存の意味と象徴的な意味

人間の意味づけの力は強力だ。

たとえば、火山の噴火や洪水といった自然現象も、その仕組みを解明するには知恵や観測技術が必要になる。

しかし、人類は原因が分からない出来事を、ただ「分からない」として受け入れるだけではなかった。

ときには神や精霊など、超自然的な存在を持ち出すことで、理解できない出来事に理由を与えてきた。

実際、人間の脳には、出来事の原因や理由を探り、そこに意味を見いだそうとする傾向がある。

人間は、分からないことに説明を与えることで不確実な状況を理解し、安心しようとするのかもしれない。

だが、肉食獣の存在を察知するための意味づけと、神の怒りや武士道のような意味づけは性質が異なる。

前者は危険を察知し、生存に直接役立つ意味づけである。

一方、後者は生存のための判断にとどまらず、世界の解釈や生き方、価値観にまで関わる意味づけだ。

そこで、この記事では意味づけを、便宜的に二つの段階に分けて考えたい。

すなわち、生存に直接役立つ「適応的意味」と、世界や人生に解釈を与える「象徴的意味」である。

二つの意味

適応的意味(機能的意味):世界の状況を読み取り、行動するための意味

例:「黒い雲が広がる=雨が降りそう」「足跡がある=動物がいるかもしれない」

象徴的意味(物語的意味):世界や人生に価値を見いだし、生き方を方向づけるための意味

例:「黒い雲が広がる=超自然的存在の怒り」「動物の牙=勇気や強さの象徴」

「適応的」は生存に役立つという機能を表し、「象徴的」は抽象的な概念や表象に関わるという性質を表す。

本来、同じ軸で二分できる概念でないため、一つの意味づけが両方の性質を持つこともある。

適応的意味:周囲の情報から原因や結果を推測し、環境に適応するための意味づけ

象徴的意味:物事や出来事に、抽象的な価値、物語、信念、意義などを与える意味づけ

生物が生き延びて子孫を残すことだけを考えるなら、適応的意味を認知の主軸するのが適切に思える。

しかし人間は生存に直接関係する事柄だけでなく、運命や名誉など、さまざまなものに意味を見いだしている。

私はその背景に、生存に直結する意味づけの必要性が相対的に低下したからだと考えた。

すなわち、象徴的意味が人間の生活や価値判断に占める比重が、適当的意味よりも大きくなった。

なぜなら、共同体の規模が膨れ上がり、安全が保証され、食べる物に困らない(農業革命)

そんな中、生存のために認知能力を振り分ける必要性はだんだんと薄くなって行く。

人は生きるために探索し、生きるために採取し、生きるために狩猟してきた。

しかし、もはや「生きるために」努力する必要性は薄くなった。

私たちが「今日を生き延びるためにどう行動するべきか」を考えることは、特殊な環境以外では皆無だろう。

人は、延々と続く退屈や暇、余暇に耐えられるようにはできていない。

その退屈という感覚の正体が、認知機能の「余剰」ではないかと、以前の記事で考察した。

行き場を失った生存のための認知的エネルギーは余り、消費されることなく漂い続ける。

よって、生存に不必要な物事の背景を推測し、関係性を見つけ、仮説や物語を組み立てる。

そのように、認知能力がさまざまな場面で働くことで、象徴的意味も膨れ上がって来たのではないか。

象徴的な意味がすべて生存に無関係とまでは言わない。

共通の信念や価値観は、共同体を形成し、他者と協力し、信頼関係を築くうえで役立つこともある。

動物の牙や角を身にまとうことで、仲間や敵に対し、強さ(狩りの上手さ)のアピールにもなる。

つまり、もともと持っていた象徴的意味と適応的意味のバランスが崩れたことに由来する。

現代社会、特に日本では、生存について毎日ギリギリの判断を下す必要性はほぼない。

だが、行き場を失った認知エネルギーは象徴的意味に振り分けるしかなくなる。

「自分はなんのために生きているのか」「運命はあるのか」「本当の愛とはなにか」

生存を意識しない人々は、解のない過剰な意味付けのループ(過剰解釈)へと暴走し始める。

この記事では、この状態を『解釈の呪縛』と呼びたい。

クロ

ここまで、あくまで妄想に近い推論ニャ。

「無意味である」という言葉があるが、それすらも象徴的意味と言えるかもしれない。

「分からない」状態に耐えられない人間は、意味がないという意味をつけて安心するからだ。

意味を求めることの功罪

「解釈の呪縛」と表現したが、意味づけは、人間が二足歩行をすることと同じような自然な営みかもしれない。

もっと言えば、意味に意味を見いだそうとするこの記事そのものが「解釈の呪縛」の産物でもある。

しかし、象徴的な意味づけは、それ自体が善でも悪でもない。

人間の認知に根ざした、ごく自然な働きの一つと考えることもできるだろう。

解釈の呪縛と過剰な意味づけ

意味づけを考えるうえで参考になるのが、哲学者ニーチェの「奴隷道徳」と「貴族道徳」という考え方だ。

ニーチェによれば、奴隷道徳はルサンチマン、すなわち強者に対する怨恨や反感から生まれる。

自分自身を肯定することから始まるのではなく、まず外部の他者を否定することから始める。

その対立を通じて自分の価値を見いだそうとする道徳である。

それに対して、貴族道徳は他者を否定することを出発点とせず、自らを肯定するところから価値を生み出す。

すべての高貴な道徳は、勝ち誇るような肯定の言葉、然りで自己を肯定することから生まれるものである。

ところが奴隷の道徳は最初から、「外にあるもの」を、「他なるもの」を、「自己ならざるものを」、否定の言葉、否で否定する。この否定の言葉、否が彼らの創造的な行為なのだ。

フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』

簡単に言えば、奴隷道徳では、まず他者を「悪」として位置づけ、その対極に自分たちの「善」を定める。

ルサンチマンの人間が考える「敵」がどのようなものか、想像してみていただきたい。

――これこそがルサンチマン人間の行為であり、創造物である。

フリードリヒ・ニーチェ『道徳の系譜学』

このニーチェの思想を、ここまで考えてきた「意味づけ」という観点から捉え直すと、興味深い点が見えてくる。

まず、奴隷道徳における善悪の判断は、目の前の危険を察知するといった、生存に直接結びつく判断とは異なる。

そこでは、他者を鏡にして自分自身をどのように評価するかという、価値づけが行われている。

この意味で、私がこの記事で「象徴的意味」と呼んできたものに関わる働きだと考えられる。

貴族道徳も同様に、生きるか死ぬかを直接判断するものではない。

自分をどのように評価し、何を価値あるものとみなすかという問題に関わっている。

そして、ニーチェの思想そのものも、世界や人間のあり方を解釈し、価値を問い直す試みである。

それ自体が、目の前の危険を判断するような生存に直結する機能とは異なる。

しかし、武士道や騎士道の例で見てきたように、象徴的な意味が、現実の生死にまで影響を及ぼすこともある。

名誉や忠義、といった価値観や道徳心は、ときに人の行動を強く方向づけ、命を懸ける選択にまでつながる。

本来は生存に直接結びつくわけではない価値観や意味づけが、なぜ、ときには生死を左右するほどの力を持つようになるのだろうか。

その起源や仕組みを記事内で解釈し、断定することはしない。

ただ、意味づけが現実の状況を理解するための手段を超え、人の価値観や行動を強く縛るのは確かだ。

人の幸福と意味の関係

現代の心理学においても、意味づけは、人の幸福を考えるうえで重要なテーマの一つとなっている。

たとえば、幸福やウェルビーイングを研究する分野に、ポジティブ心理学がある。

その代表的な枠組みの一つが、心理学者マーティン・セリグマンが提唱したPERMA理論だ。

この理論では、ウェルビーイングを構成する要素の一つとして、Meaning(意味・意義)が挙げられている。

ポジティブ心理学のPERMA理論

Positive Emotion(ポジティブ感情):日常の中で前向きな感情を感じられていること。

Engagement(エンゲージメント):自分の強みや関心を活かし、活動に没頭できている状態。

Relationships(関係性):信頼や思いやりに基づいた、良好な人間関係があること。

Meaning(意味・意義):人生や行動が、価値あるものにつながっていると感じられること。

Accomplishment(達成):目標に向かって努力し、達成感や成長を実感できていること。

また、動機づけを説明する理論として知られる自己決定理論(Self-Determination Theory:SDT)も、

人が自分らしく意欲的に生きるための条件を考えるうえで参考になる。

自己決定理論では、「自律性」「有能感」「関係性」という三つの基本的心理欲求が重視されている。

自律性とは、自分の行動を自分の意思で選び、納得して取り組んでいると感じられること。

有能感とは、自分には物事を成し遂げる力があると感じられること。

そして関係性とは、他者とつながり、受け入れられていると感じられることを指す。

とりわけ自律性は、行動の理由を自分自身が納得できるものとして受け入れられるかどうかと関係している。

誰かに強制されるのではなく、自分が大切だと思うことに納得して取り組めるかどうか

他の幸福研究においても「生きがい」というのは重要な要素に含まれていることが多い。

このように、意味や意義は幸福を考えるうえで重要な要素である。

また、自分の価値観に沿って行動することも、意欲的に生きることと関係している。

この記事の言葉を当てはめるなら、「自分自身を自分の象徴として受け入れることができているか」

クロ

自分を構成している意味はなにかニャ?

意味の消費と他者への依存

意味を求めること自体は自然な営みであり、ときには人々の結束を強め、幸福を支えることにもつながる。

しかし、その意味づけが過剰になり、ときには暴走してしまうこともある。

分かりやすい例の一つが、他者から認められたいという承認欲求だろう。

生存に直接必要ではない意味や価値を求めるようになると、それをコントロールすることは難しくなる。

欲求が、いつの間にか「自分が満たされること」を最優先する方向へと傾く場合もある。

SNSの「いいね」の数への執着

動画の再生数を伸ばすことへの渇望

社会的成功への依存

他者を支配したいという欲求や優越感。

他者から称賛されるために、表向きは善行を重ねながら、その裏では不正や悪事に手を染める。

「他者から自分への意味づけ」を目的とした、そうした事例も、決して珍しくはない。

善い行いそのものよりも、それによって得られる称賛や名声が目的になる。

つまり、他者からの称賛を求めるあまり、行動の目的と手段が逆転してしまうのだ。

自分の意味は自分でつくる

繰り返すが、象徴的意味が悪いわけではない。ただ暴走しやすいだけだと私は考える。

また、意味づけがどの方向を向いたとしても、善悪とは関係しない。

しかし、社会で生きる上では別である。

意味が共同体と幸福を支える

友人関係や学校、職場など、さまざまな共同体を形成するうえで、意味づけは重要な役割を果たしている。

共通の価値観や目的を持つことは、人々の結びつきを強めるきっかけになる。

また、共同体に所属することで、私たちは孤立を避け、社会のなかに自分の居場所があると実感できる。

こうした所属感や連帯感は、人の幸福を支える要素にもなりうる。

象徴的な意味を共有することが、共同体感覚を育み、人々の幸福につながるのであれば、

その意味づけ自体にも価値があると考えられる。

人々が共有する思想や信条の体系を指す言葉に、「イデオロギー」がある。

イデオロギーも、それ自体が必ずしも問題があるわけではない。

要は、その思想や価値観をどのように受け止め、他者との関係や社会のなかでどう扱うかということだ。

自分で意味を生み出すということ

哲学者ニーチェの著作『ツァラトゥストラはこう語った』には、「神は死んだ」という有名な言葉が登場する。

この言葉にはさまざまな解釈があるが、単に神の存在を否定する言葉とは解釈されることは少ない。

それまで人々の生き方や価値観を支えてきた絶対的な基準が、力を失いつつあることを表していると考えられる。

科学の発展や社会の変化によって、従来の信念や世界観が問い直されるようになったことも、その背景の一つだろう。

では、絶対的な意味や価値が与えられないのであれば、私たちは自分自身で意味をつくる必要があるのだろうか。

他者から与えられた「意味」よりも、自分の内側から生まれた「意味」のほうが、価値があるのだろうか。

他者が生み出した意味と、自分自身が生み出した意味。

私たちは、他者の考え方や価値観と自分自身を比較しながら、物事を判断することもある。

では、両者を区別するものは、いったいどこにあるのだろうか。

哲学者サルトルは、他者のよって、私たちが自分自身を他者から見られる存在として意識することを論じた。

この考え方を踏まえると、自身の認識や価値観も、他者との関係から切り離せるものではないように思えてくる。

そもそも人間は、他者と関わりながら生きる社会的な存在である。

外からの報酬を目当てにするのではなく、自分の内面から湧き出る意欲は、内発的動機づけと言われる。

しかしそれすらも、過去に出会った人々や、社会から受け取った価値観の影響を受けているのかもしれない。

そう考えると、他者から与えられた意味と、自分自身で生み出した意味を、明確に区別することは難しい。

少なくとも、象徴的な意味に、誰にとっても当てはまる唯一の正解があるとは思えない。

地球上に生命が誕生し、長い進化の過程を経て、現在の私たち人類へとつながってきた。

そこには自然法則や進化の仕組みがあり、偶然も大きな役割を果たしてきた。

しかしその過程に、あらかじめ定められた象徴的な意味があったと考える必然性はどこにもない。

私たちの祖先は、周囲の環境から危険を察知し、原因や結果を推測する能力を発達させてきた。

この記事で「適応的意味」と呼んできた働きも、その一つとして考えられる。

そして現代人は、生存の判断だけでなく、幸福や人間関係、仕事や人生そのものに意味を見いだそうとしている。

では、私たちは何らかの意味を持って生きる必要があるのだろうか?

必ずしも、そうとは限らない。

生きる意味を明確に言葉にできなくても、日々を充実して過ごしている人はいるだろう。

だからこそ、答えのない問いであっても、自分なりに考え続けることには価値があるのではないだろうか。

他者から受け取った意味を、そのまま自分のものにしてもよい。自分自身で新たな意味を生み出してもよい。

他者の言葉に盲目的に追従することは悪徳と言われることもある。

しかし、その意味すらも道徳心から生まれた象徴的意味に過ぎない。

それがどこから生まれたかということ以上に、自分自身が納得して受け入れられるかどうかなのだと思う。

自身の生涯が追えるまでその意思を貫けるのは、決して間違いではないのだから。

免責事項

本記事は、研究・書籍・筆者自身の考察や経験をもとにまとめた参考情報です。

筆者は専門家・研究者ではなく、本内容は学術的な結論を提示するものではありません。

提示しているのは実践哲学としてのパッチワークであり「一つの見方」に過ぎません。

内容を鵜呑みにするのではなく、ご自身の感覚や経験と照らし合わせながらお読みください。

参考文献

【新・動機づけ研究の最前線】
上淵寿・大芦治(編著)西村多久磨・篠ヶ谷圭太・稲垣勉・梅﨑高行・利根川明子・鈴木雅之(著) 北大路書房:2019年
【葉隠入門】
三島由紀夫(著)新潮社:1983年
【ポジティブ心理学の挑戦 “幸福”から“持続的幸福”へ 】
マーティン・セリグマン(著)宇野カオリ(訳)ディスカヴァー・トゥエンティワン:2014年
【サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福】
ユヴァル・ノア・ハラリ(著)柴田裕之(訳)河出書房新社:2016年

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