現代では、数多くの「便利な時短家電」が存在する。
ロボット掃除機・ドラム式洗濯機・自動食洗機・スマート家電。
果ては、自動開閉ゴミ箱まである。
これらの家電は家事の負担を減らし、人生を豊かにしたり、QOLを高めたりするものとして紹介されることが多い。
実際、物によっては家事の手間を大きく減らしてくれる。よって「時間をお金で買う」と表現されることもある。
だが、ここで一つ疑問を置きたい。
時短家電は、本当に生活を豊かにするのだろうか?
家電を販売する側にとっては、商品の便利さやメリットを伝えることは重要である。
わざわざ売り上げを落とすような「この商品によって失われるもの」まで積極的に語る必要はない。
そのため、私たちは「時短できる」「楽になる」「生活の質が上がる」という言葉に目を向ける。
だが、その便利さによって何が失われるのかについては、あまり考えない。
たしかに、人間はできるだけ楽をしたい生き物だ。
面倒な家事から解放されれば、その瞬間の満足度は高まるだろう。
推しのインフルエンサーが絶賛していたものを手に入れることで疑似親密感も得られる。
しかし、「楽になったこと」と「生活の質が高まったこと」は、必ずしも同じではない。
家事の時間を減らした結果、私たちは本当に豊かな時間を手に入れているのだろうか。
それとも、ただ「面倒なことをしなくて済む生活」に慣れているだけなのだろうか。
この記事では、時短家電、そして「便利な家電」がもたらすメリットの裏側に目を向けたい。
そして、便利さによって私たちが失っているものについて考えていきたい。
目次
便利さは本当に必要なのか
初めに言っておくと、私は「時短家電」に対して、あまり肯定的ではない。
ただし、時短家電そのものが悪いと言いたいわけではない。
私が懐疑的なのは、「面倒なことはできるだけ減らすべき」という、便利さを追求する考え方のほうだ。
「時短=豊かさ」を疑う
時間短縮や効率化に役立つ、便利な家電。
これらの価値は、家電そのものだけにあるのではく、時短によって「生まれた時間」にも大きな価値がある。
たしかに、共働きで子育てをしている夫婦や、家族が多い家庭にとってその便利さは計り知れない。
家事に追われる時間を減らし、その分を家族と過ごしたり、休息に充てたりできる。
このような使い方であれば、時短家電は生活を豊かにする道具になり得る。
だが、そうではない場合はどうだろうか。
ゲームやSNS、趣味をする時間を確保するために、家事の時間を減らしているとしたら?
「強い刺激が欲しいから退屈な作業をしたくない」という理由で、面倒なことを次々と自動化しているとしたら。
それでも、本当に「豊かな生活」と言えるだろうか?
自動化で失うもの
ここで考えたいのが、私たちの「快楽」と「苦痛」の関係である。
依存症研究で知られるアンナ・レンプケ博士は、その二つを「快楽と苦痛のシーソー」と例えている。
私たちの脳には、快楽を得たあとに元の状態へ戻ろうとする働きがあると考えられている。
つまり、強い快楽を繰り返し求めていると「楽しい時間が増える」だけでは済まない。
快楽の刺激がなくなったときに、退屈や物足りなさを強く感じるようになる可能性がある。
全ての快楽には犠牲がつきものだ。
快楽の後からやってくる苦痛は、当の快楽よりも長続きし、強烈である。
アンナ・レンプケ『ドーパミン中毒』
「便利さ」というのは、ある種の快楽とも言える。
面倒な家事を減らして、さらに強い刺激を求める時間を増やす。
そうすると、ますます「単調な家事」に対しての意欲は減っていく。
それが本当に生活の質を高めているのかは、一度立ち止まって考えてみてもいいのではないだろうか。
「便利さの追求」で失うもの
もし自宅に時短家電があるのなら、ここで一度考えてみてほしい。
その家電がなかったとしても、今と同じ生活を送れるだろうか?
もちろん、「なくても困らない」という人もいれば、「今さら手放せない」という人もいるだろう。
考えてみたいのは「なぜ、それがないと耐えられないと感じるのか」ということだ。
面倒や不便さに耐えられない
便利なものを一度使うと、それまで当たり前にやっていたことが「面倒なこと」に変わる。
そして、一つ面倒なことを減らすと、今度は別の面倒なことも減らしたくなる。
こうして私たちは、少しずつ「もっと楽をしたい」という方向へ引っ張られていく。
たとえば、「現代人が江戸時代の生活を送れるか」と問われれば、ほとんどの人は「無理」と答えるだろう。
洗濯機や冷蔵庫、電子レンジはない。現代のような衛生的な水回りも整っていない。
移動は今よりもはるかに不便で、遠くの人と連絡を取るにも時間がかかる。
現代では当たり前になっている多くの便利なものの多くは存在しない。
江戸時代の生活が「現代よりも良い」と言いたいわけでは決してない。
私が言いたいのは、一度上がった生活水準を、私たちは簡単には下げられないということだ。
便利な家電を購入し、そのときは「満足感」を感じても、人はその状態にすぐ慣れてしまう。
便利さを知ると、それまで当たり前だったことが「不便」に変わる。そして、不便はときに苦痛になる。
苦痛から逃れるためには、便利さを追求し続けるしかない。
生活レベルとディドロ効果
「不便と苦痛」だけではなく、便利さには生活レベルそのものを引き上げてしまう側面もある。
その一つとして考えられるのが、ディドロ効果だ。
ディドロ効果
新しく手に入れた物によって、それまで持っていた物との調和が崩れ、周囲のものまで統一したくなる現象。
文化人類学者グラント・マクラッケンが、18世紀の思想家ドゥニ・ディドロの逸話をもとに論じた概念。
たとえば、次のようなケースだ。
高機能なスマート家電を一つ導入したことで、他の家電との機能やデザインの違いが気になり始める。
一台だけ高級な家電を購入したことで、他の家電も同じグレードに揃えたくなる。
一つの家電をスマート化したことで、カーテンや照明など、周辺の設備まで自動化したくなる。
すべてをディドロ効果で説明したいわけではない。全く別の様々な欲求も関係しているだろう。
しかし、「今までの生活では十分だった」という基準そのものが変わってしまうことは良くある話だ。
一度上がった生活水準を下げにくいのも、こうした心理と無関係ではないだろう。
便利さを一つ加える。その便利さが「当たり前」になる。今度は別の不便が気になり始める。
こうして私たちは、知らないうちに「もっと便利に、もっと快適に」という連鎖の中に入ってしまう。
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家事には「余白」がある
私たちが一度便利さに慣れてしまえば、元の生活水準に戻すことは難しくなる。
だからこそ、すべてを便利にするのではなく、あえて「不便さ」を残すという選択肢があってもいい。
何もしない時間も価値がある
食器を洗う。洗濯物を干す。掃除機をかける。ごみを捨てて、新しい袋をかぶせる。
こうした家事はたしかに面倒だ。私ですら「できるだけ短時間で終わらせたい」と考える。
しかし、家事の時間は本当に「削るべき時間」なのだろうか。
家事をしている間、私たちはスマートフォンを操作する必要がない。通知に反応する必要もない。
ただ手を動かしながら、ぼんやり考え事をしたり、今日あったことを振り返ったりすることもできる。
凝り固まった体を動かす時間にもなる。
目の前の食器を洗うことだけに意識を向け、ゆっくり深呼吸してみるのもいい。
そう考えると、家事には「何もしない時間」に近い余白が含まれている。
しかもそれは、意図せずともスマートフォンから離れることができる強制的なデジタルデトックスでもある。
もちろん人によっては家事そのものが楽しめるとは限らない。イライラしながら作業することもあるだろう。
それでも、少し呼吸を整え、目の前の作業に意識を向けてみる。
そんな時間は、忙しい現代の生活では意外と貴重なのではないだろうか。
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便利さを追求する前に
繰り返すが、私は時短家電そのものを否定したいわけではない。
私が警鐘を鳴らしたいのは「できるだけ便利にするべき」という考え方のほうだ。
たとえば、朝は家族みんなが慌ただしく、家事に追われている家庭もあるだろう。
そうした場合、時短家電によって「時間に余裕ができた」というのであれば、その恩恵は大きい。
一方で、もし「時間に追われる毎日」を改善したいのであれば、今の生活そのものを見直すという方法もある。
たとえば、もう少し早く起きることで、朝の時間に余裕をつくる。
早朝なら、軽い拭き掃除をしたり、食事の準備をしたりする時間も確保できるかもしれない。
早起きが誰にとっても正解というわけではなく、仕事や家庭環境によるだろう。これはあくまでも例えだ。
大切なのは「本当に時間が足りないのか」「今の生活のどこに無理があるのか」を考えてみること。
「時間に追われる毎日」を改善するために、時短家電を使うのか。
その前に、今の生活レベルのまま、何か工夫できることはないかを考えるのか。
便利さの追求には終わりがない。
いづれ「それが当たり前」に変わり、さらなる快適を求めるようになるかもしれない。
だから、自分にとって「生活の豊かさとはなにか」を今一度考えてもいいのではないだろうか。
免責事項
本記事は、参考文献や社会的な視点をもとに、筆者個人の見解として考察をまとめたものです。
また、記事の内容は客観的な正解や絶対的な基準を保証するものではありません。
あくまで物事を考える上での一つの視点として、ご自身の価値観や判断を大切にしながらお読みください。
参考文献
【ドーパミン中毒】
アンナ・レンブケ(著)恩蔵絢子(訳)新潮社:2022年
『ディドロ効果』については、Diderot effect Wikipediaを参考
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