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いじめや不登校を経験しました。
そのなかで人付き合いに慎重な「人見知りの内向型」として成長してきました。

長いあいだ「生きづらさ」を感じてきましたが、少しずつ過去を受け入れ、いまは自分らしいペースで前を向いています。

このブログ 【内向型ラボ ― わたしらしく生きるための自己心理メディア】 は、内向型が無理をせず安心して暮らすための工夫や考え方を、私自身の体験や心理学・科学の知見とともにまとめた場所です。

同じように悩む方にとって日々の中で小さな幸せを見つけるきっかけになれば嬉しいです。

運営者の学びと資格

介護福祉士(2024年取得)
介護士として5年間現場に従事し、人の心や生活に寄り添う経験を積みました。
メンタルケア心理士®(2025年取得)
心理学の基礎から応用まで体系的に学び、心の健康に関する理解を深めました。

大人になるとは何か?|法律・役割・精神から考える成熟

成熟と成長をテーマにした、草原を歩く子どもたちのイメージ

小学生の頃に「どんな大人になりたいか」といった質問を受けたことがないだろうか?

私は当時、当たり前のように「大人」というゴールがあるように思っていた。

しかしいざ自分がその年齢に近づくと(あるいは過ぎてみると)その境界線は曖昧なことに気づく。

18歳になれば成人。働けば社会人。結婚すれば一人前。

私たちは当たり前のように「大人」という言葉を使っている。

自分に責任を持てること、お金を自由に使えるようになること、親元から巣立つこと。

社会と調和して生きること、他者を思いやれること、働いていること。

しかし、それらは本当に同じ「大人」を指しているのだろうか。

クロ

僕的には「お酒が飲める年齢」の印象が強かったニャ。

法律が定める大人と、家族が求める大人、そして私たちが日常で感じる大人らしさは、必ずしも一致していない。

私たちは「子ども」と「大人」を明確に分ける二項対立の世界に生きているのか。

それとも「大人」という言葉そのものが、多様な意味を含んだグラデーションなのだろうか。

本稿では、法律・役割・精神という三つの視点から「大人になる」とは何を意味するのかを考察していく。

目次

子どもと大人の二項対立

二項対立とは、ある物事を対照的な二つのカテゴリーに分けて捉える考え方である。

たとえば「善と悪」「理想と現実」「自然と人工」「東洋と西洋」などが挙げられる。

私たちは日常生活の中でも、無意識のうちに物事を二つに分けて理解している。

年齢や成熟について考えるときも「子ども」と「大人」という二項対立を当然のものとして受け入れている。

しかし、本当に「子ども」と「大人」は明確に分けられる存在なのだろうか。

この記事も、まずはその素朴な疑問から出発する。

法律から見た「大人」の定義

まずは、私たちの社会の「当たり前」を形づくっている法律から、「大人」の定義を見ていこう。

もちろん、大人という概念が法律だけで説明できるとは限らない。

しかし議論の出発点として、まずは客観的な基準を確認しておきたい。

日本では18歳から成人になる

現在の日本の民法では、18歳から成人と定められている。

「成人」に関して、2022年4月に大きな法改正が行われたことは記憶に新しい。

この民法の成年年齢が、民法の一部を改正する法律(平成30年法律第59号)により、18歳に引き下げられました(令和4年4月1日施行)。

引用元:参議院法制局『法律の中での”大人”は何歳?

しかし、18歳になったからといってすべての権利が一斉に解禁されるわけではない。

健康被害や非行の防止を目的として、飲酒・喫煙、あるいは少年法による保護制度など、

依然として「20歳未満」を対象とする仕組みが維持されている。

つまり、日本の法律は18歳を「成人」として認めつつも、同時に20歳未満を「保護対象」にとどめている。

世界各国の成人年齢を比較する

では日本以外の国での「成人」はどうか?

OECDの調査によれば、成人年齢(Age of Majority)はOECD加盟国のほとんどで18歳に設定されている。

The age of majority is 18 years in almost all OECD countries.

OECD Family Database, PF1.8: Legal age thresholds regarding the transition from child- to adulthood

実際に主要国の制度を見ても、成人年齢は18歳が一般的である。

クロ

ただ、調査は2016年と少し古いニャ。

国名成人年齢備考
日本18歳飲酒・喫煙・公営ギャンブルは20歳から
イギリス18歳16歳から一部の権利が認められる場合がある
フランス18歳18歳で完全な成人となる
ドイツ18歳16歳からビール・ワインの飲酒が可能
アメリカ18歳州によって制度差があるが成人年齢は18歳が基本

もちろん、飲酒・喫煙・結婚・刑事責任などの細かな基準は国によって異なる。

しかし、少なくとも法的な成人年齢という観点では、18歳を一つの区切りとする国が圧倒的多数派である。

権利と責任は段階的に与えられている

詳しく見ていくと、多くの国では「成人か未成年か」という単純な区分だけで制度が作られていない。

実際には、権利と責任は年齢に応じて段階的に与えられている。

たとえば、ドイツやオーストリアでは16歳からビールやワインの購入・飲酒が認められている。

反対に、アメリカでお酒が飲めるのは21歳からと成人年齢よりも遅い。

また、イギリスでは10歳、フランスでは13歳から一定の刑事責任能力が認められている。

クロ

成人前から大人の責任が始まっているケースもあるんだニャ

このように、飲酒・契約・選挙・刑事責任などは、必ずしも同じ年齢で一律に認められるわけではない。

各国はそれぞれの価値観に基づき、年齢に合わせて権利と責任を少しずつ付与している。

つまり「法的な成人」とは、段階的に獲得されていく社会的な立場だと考えることができる。

法的なアプローチにおいて、子どもと大人を明確に切り分ける単純な二項対立では説明できない。

制度の裏側にあるのは、子どもから大人へと少しずつ移行していくグラデーションだ。

家庭の中で求められる「大人らしさ」

ここまで見てきたように、法律の世界では子どもから大人へのグラデーションが存在している。

そして興味深いことに、この考え方は法律だけではない。

私たちは家庭の中でも、無意識のうちに「子ども」と「大人」の間にグラデーションを設けている。

たとえば、「お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい」という言葉である。

そこでは年齢に加えて、家族の中で与えられた役割によって「大人らしさ」が求められている。

「○○なんだから」と言われる子どもたち

とある四人家族を想像してほしい。弟は6歳、兄は7歳である。

二人は仲良くおもちゃで遊んでいた。

しかし、弟が兄のおもちゃを勝手に持っていってしまったため、兄はそれを取り返した。

弟は泣き始め、そこへ親がやってきて状況を理解した後、こう言った。

お兄ちゃんなんだから貸してあげなさい。

妹や弟がいる人なら、一度は似たような言葉を聞いたことがあるかもしれない。

この言葉には、どのような意味が込められているのだろうか?

おそらく親は「年上なのだから少し譲りなさい」「兄として手本になりなさい」という期待を込めている。

つまり、そこでは年齢そのものではなく、兄や姉という立場に応じた役割が求められているのである。

クロ

譲るという大人の態度は「自制心」に繋がるニャ。

言い方の是非はともかく、兄が「譲る立場」というのを私は理解できる。

もっと簡単にするならば、上の子は下の子の面倒を見る。と言い換えれば分かりやすいかもしれない。

しかし兄は弟より一年早く生まれただけであり、どちらも社会的にはまだ子どもである。

それにもかかわらず、なぜ同じ『子ども』であるはずの兄や姉に対して、成熟した振る舞いを求めてしまうのだろうか

子どもなのに大人を求められる矛盾

もちろん、この問題を「親が早く兄弟喧嘩を終わらせたいから」の一言で説明することはできる。

しかし、それだけでは十分ではない。

なぜなら、親は弟ではなく兄に対して「譲りなさい」と求めているからである。

その背景には、次のような考え方があるのかもしれない。

なぜ兄(姉)が譲るべきなのか

① 子どもはやがて大人になるため、その予行演習をさせたいという期待

② 年上の子は年下よりも自制心があるはずだという思い込み

③ 兄や姉には下の子の面倒を見る役割があるという規範意識

細かな違いはあっても、これらには一つの共通点がある。

兄や姉という立場に対して、年齢以上の責任や成熟が期待されていることである。

社会的にはまだ子どもであるにもかかわらず、家庭の中ではすでに「大人らしさ」が求められている。

私たちは何を「大人」と呼んでいるのか

私たちは子どもの頃から、少しずつ「大人になる練習」をしている。

それは家族の中での役割であったり、他者を思いやる心であったりする。

そして、こうした家庭内の役割は、「大人とは何か」を考える上で興味深いヒントを与えてくれる。

先ほどの例で親が兄に求めていたものは、自制心や面倒見の良さ、自分の感情を抑えて譲る力ではないだろうか。

これらは、私たちが一般に思い描く「大人らしさ」と重なる部分が多い。

つまり家庭の中では、単に年齢を重ねることではなく、精神的な成熟そのものが期待されていると考えられる。

だとすれば、私たちが「大人」と呼んでいるものは、年齢や法的地位だけではなく、精神的成熟も含まれる。

この年齢と役割のギャップこそが、子どもたちが直面する最初の矛盾なのかもしれない。

精神的成熟は大人の条件なのか

ここまで見てきたように、法律は年齢によって大人を定義し、家庭は役割によって大人らしさを求めていた。

では、私たちが日常で「大人だな」と感じるのはどのような人だろうか。

おそらく多くの人は、年齢や肩書きよりも、その人の態度や振る舞いを思い浮かべるはずである。

冷静であること。感情をコントロールできること。他者を思いやれること。

私たちは無意識のうちに、精神的な成熟を「大人らしさ」と結び付けているのではないだろうか。

しかし、そのイメージは本当に正しいのだろうか?

感情的な人と冷静な人、どちらが大人か

あなたが街を歩いていると仮定してほしい。目の前には二人の青年がいる。

一人は大声で感情の赴くまま相手を怒鳴り散らし、もう一人は冷静に相手の話を聞きながら謝罪している。

会話を聞いていると、どうやら待ち合わせ場所を「お互いに」勘違いしていたらしい。

情報は少ない。それでも、あなたはどちらのほうが「精神的に大人」と感じるだろうか。

おそらく多くの人は、冷静な青年の方を選ぶのではないだろうか。私も同じである。

なぜなら私たちは、日常の人間関係の中でも、無意識のうちにこの「振る舞いの差」を大人の基準にしているからだ。

もう少し例を出そう。たとえば、次の二つのケースを比べてみてほしい。

① 意見が通らなくて不満を露わにする上司、嫌な事から逃げる友人、すぐに感情を爆発させる恋人

② 他者の意見を尊重できる上司、面倒な役目を進んで引き受ける友人、感情をコントロールできる恋人

どちらのグループに「大人らしさ」を感じるかは、議論の余地がないだろう。

私たちは年齢や肩書き(上司・友人・恋人)という記号だけで判断しているわけではない。

その人が見せる「自制心」や「他者配慮」といった振る舞いによって、直感的に大人かどうかを判断している。

誠実さや寛容さは大人の証なのか

ある物語で、子どもっぽい振る舞いをする主人公が「もう大人なんだから」と注意される場面を想像してほしい。

そのとき、あなたはどのような行動を思い浮かべるだろうか。

私の場合は「他者に迷惑をかける」「感情のままに振る舞う」といった行動である。

では、この想像の「全く逆の性質」を想像すると、逆説的に「大人っぽい」行動が見えてこないだろうか?

大人っぽい行動:他者を尊重し受け入れること、自身の感情に振り回されないこと。

前者は他者や社会に対する誠実さであり、後者は自分自身を律する力と言い換えることができる。

自分をコントロールする能力は重要だ。法的な成人に認められる飲酒や契約の自由も、自己責任を前提としている。

一方で、誠実さや寛容さは、自分のためというよりも他者との関係を円滑にするための性質である。

つまり私たちが「大人っぽい」と感じる人物像には、社会との調和という価値観が含まれているのではないだろうか。

「大人っぽい」とは、他者や社会との摩擦を減らし、調和を保てる人に与えられる評価なのかもしれない。

理不尽に耐えることは成熟なのか

自己責任を引き受け、他者や社会との調和を保てる人が「大人っぽい」のだとすれば、別の疑問も浮かび上がる。

他者との摩擦を避けるために言い返せず、理不尽な要求にも従い、暴力や圧力に屈してしまう。

こうした人を、私たちは本当に「大人っぽい」と感じるだろうか。

おそらく多くの人は違和感を覚えるはずである。たしかに彼らは感情的ではない。周囲との衝突も少ない。

しかし、それだけでは大人らしさとして十分ではないように思える。

なぜなら、その行動が自分自身の選択ではなく、単に周囲へ流されているだけに見えるからだ。

本当の意味で自制心とは、感情を押し殺すことではない。

怒ることも、拒絶することもできる上で、それでも自らの意志で行動を選ぶことではないか?

そう考えるなら、私たちが「大人らしさ」に求めているものは単なる調和ではなくなる。

他者と共存しながらも、自分という個を失わない強さなのである。

しかし、ここで改めて立ち止まる必要がある。

精神的成熟が「大人っぽさ」と関係していることは分かった。しかし、それだけで「大人」の定義になるのだろうか。

たとえば、会社では落ち着いた振る舞いをする人でも、家族や友人の前では無邪気な一面を見せることがある。

クロ

いわゆるペルソナの問題ニャ。

もしそうなら、私たちは一体どの姿を見て「大人」と呼んでいるのだろうか。

大人という言葉の多義性

ここまで、法律・人間関係・精神的成熟という三つの視点から「大人とは何か」を考えてきた。

すると興味深いことが見えてくる。

私たちは同じ「大人」という言葉を使いながら、実は異なる意味を指しているのである。

法的な成人を意味することもあれば、家庭内の役割を意味することもある。

あるいは、精神的な成熟や人格的な評価を表す場合もある。

つまり、「大人」という言葉は単一の概念ではなく、複数の意味が重なり合った多義的な言葉として使われている。

ここで改めて、それぞれの意味を整理してみよう。

年齢による大人

まず最初に挙げられるのは、年齢による大人である。

これは法律によって定められた成人であり、日本では18歳からが該当する。

一見すると、この考え方は非常に明快だ。

17歳は子ども、18歳は大人。

だがここまで見てきたように、現実はこの定義ほど単純ではない。

飲酒や喫煙は20歳から認められ、国によっては成人前から一部の権利や責任が与えられる場合もある。

つまり、法律上は18歳を境界としていても、その前後には数多くの中間段階が存在している。

年齢による大人とはある日完成する状態」ではなく、少しずつ権利と責任を獲得していく過程に過ぎない。

法律にとって重要なのは、その人が成熟しているかどうかではない。

誰に対しても公平に適用できる基準を持つことである。

だからこそ、法的な成人という言葉だけでは、私たちが日常で感じる「大人らしさ」を十分に説明できない。

法的には成人であっても、「まだ子どもっぽい」と感じる人はいる。

逆に未成年であっても、「しっかりした大人のような人だ」と評価される場合もある。

年齢による大人は存在する。しかしその内側には、子どもから大人へ「移行のグラデーション」が隠れている。

そして私たちは年齢だけではなく、社会の中で与えられた役割によっても「大人」を判断している。

役割による大人

二つ目の「大人」は、年齢ではなく役割によって生まれる。

私たちは日常生活の中で、法的な成人かどうかとは無関係に「大人らしい振る舞い」を他者へ求めている。

その代表例が、先ほど見た「お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい」という言葉だろう。

そこでは7歳の兄に対して、単なる年齢差以上の責任が期待されている。

兄だから譲るべき。姉だから面倒を見るべき。

先輩だから手本になるべき。親だから我慢するべき。

これらはすべて、年齢ではなく社会的な立場や、環境における与えられた役割に基づいている。


人間関係の広がり|多義的な役割

この役割への期待は、成長とともに家庭の外へと地続きで広がっていく。

学校やコミュニティにおける「先輩らしさ」などの「上下関係の振る舞い」がそれである。

子どもの頃の人間関係は親や大人に守られた環境への依存、あるいは感情のぶつかり合いが中心のように思える。

しかし成熟を求められるにつれ、人間関係は「利害や感情の異なる他者との共存」という相互扶助へと移行する。

単に自分の意見を通すのではなく、時には一歩引いて場のバランスを取る。

あるいは、悩んでいる友人の支え手(ロールモデル)になる。

こうした「他者との関係性において役割を演じ分けること」も、日常で直感する大人らしさの一因ではないか。

経済と労働:社会を維持する役割

さらに役割のハードルが大きく上がるのが、経済と労働の領域である。

子どもの視点における「経済的な大人」とは、往々にして「お金を自由に使えること(消費の自由)」を指す。

しかし、子どもの求める理想の大人と、社会が求める実際の役割は真逆である。

自ら価値を生み出し、社会を維持する側に回ること(生産と責任)

労働における役割は、単に作業をこなすだけでなく、契約に基づき、職務上の責任を全うすること。

経済における役割は、得た対価から税を納め、社会保障の担い手となり、自己の生活を自立して管理すること。

ここで重要なのは、この経済・労働における「大人」の役割もまた、0か100ではないということである。

役割のグラデーションと多様性

社会には、病気や環境、あるいは学生であることなどにより、社会的な役割を十分に担えない状況が当然存在する。

だからといって、その人が「大人ではない」と一刀両断に切り捨てるのは早計である。

アルバイトを始めた高校生が、小さな労働責任を通じて大人らしさを獲得していくこともある。

成人であっても新しい環境で庇護されながら役割を学んでいる最中の人もいる。

50歳の男性が働かずに大学で経済学を学んでいても、おかしなところはなにもない。

以上のことから、役割による大人とは、「ある固定された完璧な状態」を指すのではないことが理解できる。

家庭、友人関係、環境、そして労働という異なる環境で、自分が引き受けられる責任の領域を少しずつ広げる。

つまり私たちは、ある役割を持った瞬間から、その人に「らしさ」を求め始めるのである。


よって、与えられる役割による大人と、年齢による大人は一致しない。

子どもであっても兄や姉になれば大人のような責任を期待される。

反対に、法的には成人していても、家庭や職場で何らかの庇護を受ける立場にいることもある。

役割による大人とは、社会の中で期待される「責任や振る舞いのグラデーション」である。

そこでは「子ども」と「大人」が分かれているのではなく、役割に応じて少しずつ大人らしさが求められている。

そしてその役割は、環境次第でどのようにも変化する。

私たちが日常で使う「大人」という言葉も、実際には年齢ではなく、この役割を指している場合が考えられる。

精神的成熟による大人

三つ目の「大人」は、精神的成熟による大人である。

これは法律や役割とは異なり、その人の内面や人格に注目した考え方だ。

私たちは日常生活の中で、しばしば年齢とは関係なく「大人っぽい人」「子どもっぽい人」と評価している。

そこで基準になっているのは、自制心や誠実さ、他者への配慮といった精神的な性質である。

感情に振り回されず冷静に判断できる。

他者の立場を想像できる。

責任から逃げず、自分の行動を引き受けられる。

こうした性質を持つ人に対して、私たちは「大人らしい」という印象を抱きやすい。

しかし、ここにも一つの問題がある。

精神的成熟には、法律のような明確な基準が存在しない。

18歳になった瞬間に成人になるような境界線はなく、人によって成熟の速度も方向性も異なる。

十代でも驚くほど落ち着いている人がいる。

反対に、何十年も生きていても感情を制御できない人もいる。

つまり、精神的成熟は年齢と完全には一致しない。

さらに言えば、自制心には自制心の成熟、思いやりには思いやりの成熟というように、成長の仕方も一様ではない。

精神的成熟による大人とは、人格や内面の成長によって少しずつ獲得されていく連続体である。

そこには「ここから先が大人」という明確な線引きは存在しない。

その人の振る舞いの一部分を見ながら、「大人らしい」「まだ子どもっぽい」と連続的に評価しているのである。

ことわざが示す精神的成熟

また、精神的成熟に関係する「ことわざ」がいくつかある。

実るほど頭を垂れる稲穂かな(みのるほどこうべをたれるいなほかな)
学徳や経験が深まった(=大人になった)人ほど、他人に対して謙虚で傲慢にならないということ。

大人(たいじん)は寛容を旨とす
優れた人間(精神的な大人)は、他人の過ちを広く受け入れる寛大さを持っているべきだということ。

歳を食うても分別(ふんべつ)は食わぬ
年齢だけは重ねて(大人になって)も、それに見合うだけの判断力や常識(分別)が身についていないこと。

これらのことわざに共通しているのは、年齢そのものではなく人格や判断力を評価している点である。

謙虚さ、寛容さ、分別といった性質は、いずれも法律上の成人とは関係がない。

つまり私たちは古くから、「何歳か」よりも「どう振る舞うか」を大人らしさの基準として考えてきたのである。

さらに言えば、この成熟は「いつでも、どこでも、誰に対しても同じように発揮されるもの」とは限らない。

私たちは、会社、家族、友人、など、それぞれの場に応じた「ペルソナ」を使い分けて生きている。

会社では感情を律する「大人」であっても、友人の前では無邪気な振る舞いが肯定されることもある。

状況や相手によって適切にペルソナを切り替えられること。

それ自体もまた、社会に適応するための重要な「精神的成熟」と呼べるかもしれない。

なるほど。ここまで見れば、精神的成熟こそが本当の意味での「大人」だと言いたくなる。

しかし、その精神的成熟には終着点が存在しない。

どれほど成熟した人でも未熟な部分を持ち続けるし、反対に子どもであっても驚くほど思慮深い場合がある。

もし成熟度によって大人を定義するなら、私たちは一体どこで線を引けばよいのだろうか。

「精神的成熟」という決めつけへの異論

精神的成熟を「大人」と仮定しよう。

精神的成熟的な大人

すなわち、感情に振り回されず冷静に判断することができ、他者を尊重することができる。

そして責任から逃げず、自分自身の行動を引き受けられる。

しかし、人は常に冷静でいられるわけではない。他者を尊重し続けることもできない。

怒りや嫉妬、不安や恐怖といった感情は誰にでも存在する。

もし精神的成熟を「大人」の条件とするなら、人はそうした感情を絶えず制御し続けなければならない。

それは言い換えれば、自分の内側にある衝動と戦い続けることでもある。

大人であることが、そのような自己管理を生涯にわたって要求される状態とは、ずいぶん過酷ではないだろうか。

もっと言えば、この考え方は現代日本という特定の文化を前提にしている。

時代や国が変われば、むしろ「自分の感情を押し通す強さ」こそが大人らしさと捉えられる可能性も否定できない。

人の性質(多様性)は無視される

たしかに、私たちが直感的に理解できる以上、精神的成熟は「大人」の一側面と言ってよいだろう。

しかし、精神的成熟をそのまま「大人」の条件としてしまうと、新たな問題が生まれる。

それは、「精神的に成熟している人」と「精神的に成熟していない人」という新しい二項対立である。

私たちはここまで、「子ども」と「大人」を明確に切り分ける考え方に疑問を投げかけてきた。

ところが今度は、「成熟」と「未成熟」という別の境界線を引こうとしている。

精神的に成熟した「社会的な振る舞い」だけを見て、その人がどういった人間か理解できるのか?

言うまでもなく、人間の人格や精神はそれほど単純に説明できるものではないはずだ。

冷静に振る舞える場面もあれば感情的になる場面もある。他者に寛容な時もあれば、自分の余裕を失う時もある。

社会的な役割を完璧に果たしているからといって、その人の内面まで常に完璧に成熟しているわけではない。

そもそも、人の性質そのものがグラデーションではないだろうか。

楽観的な人もいれば悲観的な人もいる。ストレスに強い人もいれば弱い人もいる。

刺激を求める人もいれば安定を好む人もいる。

子どもの頃から外で遊ぶことが好きな人もいれば、読書を好む人もいる。

人は同じように成長するわけではない。気質や能力、育った環境は一人ひとり異なっている。

精神的成熟もまた、あるかないかで分けられるものではない。

それは状況や環境によって変化し、人によって現れ方も異なる連続体である。

つまり「成熟した人」と「未熟な人」を分ける発想が、人間の複雑さや多様性を見落としている可能性がある。

他者や社会の基準と自分の基準

少し遡って「役割による大人」を考えてみよう。

私たちは社会や家庭が求める「兄らしさ」「妻らしさ」といった役割に適応しながら生きている。

先ほどの『「○○なんだから」と言われる子どもたち』の章で、私は次のように書いた。

弟は泣き始め、そこへ親がやってきて状況を理解した後、こう言った。

ここで少し考えてみてほしい。

あなたは「親」という言葉から、どのような人物像を思い浮かべただろうか。

子どもの喧嘩を公平に裁く存在、あるいは感情的にならずに諭す、成熟した「大人」の姿ではなかっただろうか。

重要な点は、実際の親が「成熟しているか/そうでないか」という部分にはない。

私たちが「親という役割」に対して、無意識にそうした高い成熟度を期待してしまうということである。

私たちは文章を読むときでさえ、自分の経験や価値観を補いながら意味を理解している。

つまり、「当たり前」だと思っていることの多くは、社会や経験の中で身につけた解釈の枠組みなのである。

では、私たちが理想とする「精神的に成熟した大人」も同じではないだろうか。

冷静であること。他者を思いやること。責任を引き受けること。たしかに魅力的な性質ではある。

しかし、それは本当に「大人」としての完成形なのだろうか。

あるいは、社会が求める役割へ適応した人を「成熟した大人」と呼んでいるだけなのかもしれない。

熱心な研究者や哲学者は子どもなのか

ノーベル賞は、人類に大きな貢献をした人物に贈られる世界最高峰の栄誉の一つである。

社会的な評価という意味では、多くの人が「成功した大人」の象徴として思い浮かべるだろう。

しかし、そのような賞よりも研究そのものを大切にする研究者は少なくない。

朝永振一郎氏(1965年 ノーベル物理学賞/量子電磁力学)

リチャード・ファインマン氏(1965年 ノーベル物理学賞/朝永氏らと共同受賞)

朝永氏は受賞後も「お祝いより研究を続けたい」という姿勢を崩さなかったと言われている。

またファインマン氏も、ノーベル賞によって研究時間が奪われることを本気で嫌がっていたことで知られている。

もちろん、このような例は二人だけではない。

何か一つのことに夢中になり、損得勘定を忘れて没頭する人は数多く存在する。

そして私たちは、そのような人をしばしば次のように表現する。

「まるで子どものように研究を楽しんでいる」

ここで興味深いことが起こる。

私は、「感情を抑える」「社会と調和する」「責任を果たす」といった性質を大人らしさとして語っていた。

しかし研究者や芸術家、哲学者に対しては、むしろ子どものような好奇心や探究心を肯定的に評価することがある。

もし精神的成熟だけが大人の条件なら、この「子どものような情熱」は未熟さとして扱われなければならない。

だが実際には逆だ。

社会からの栄誉を拒む彼らを、未熟とは呼ばない。むしろ優れた研究者、優れた知性として尊敬されている。

これは、前章で挙げた「働かずに大学で経済学を学ぶ50代の男性」にも同じことが言える。

周囲は「50代なら働くべきだ」という社会的な役割を押し付け、それを満たさない姿を認めないかもしれない。

しかし、損得勘定を抜きにして「学びたい」という純粋な知的好奇心を私たちは否定できるのか?

決してそんなことはないはずだ科学者たちが持つ「子どものような情熱」と何も変わらないからである。

このことから、次の結論が導かれる

「子どもらしさ」と「未熟さ」は同じではない。

そして同様に「大人らしさ」と「成熟」もまた、完全には一致しない。

「大人になる」とはどういうことか

「大人らしさ」が、社会を円滑にする「感覚的には評価されやすい性質」であることは疑いようがない。

しかし同時に、文脈や客観的な評価によっては、損得を忘れた「子どもらしさ」が偉大な成果を生むこともある。

社交的な面で「大人らしさ」を評価されることもあり、違う面では「子どもらしさ」を評価されることもある。

そう考えると、私たちが目指すべき『大人』の姿が見えてくる。

結論:多義的なプロセスとしての大人

人には「ある日突然、完璧な大人になる」というゴールは存在しない。

法的な成人としての「大人」は、権利と責任を段階的に獲得していく不可逆的なプロセスである。

役割や精神的成熟としての「大人」は、他者との関係や社会評価の中で常に揺らぎ続けるものである。

たとえ成人していたとしても、家庭や労働環境ではそれぞれの役割を演じ、ときには精神的な未熟さに直面する。

またある時には、子どものような好奇心や純粋さを取り戻すこともある。

人が社会の中で生きている以上、年齢に伴う法的責任は遵守するべきものだ。

ただしそれは、社会維持のための統一的な指標に過ぎず、その実態は権利と責任の段階的な獲得である。

そこに役割の期待や精神の成熟が複雑に絡み合う以上、一人の人間のなかに「子ども」と「大人」は共存している。

そしてその境界は固定されたものではない。

つまり大人とは到達点ではなく、揺らぎ続けるプロセスそのものなのである。

わたしらしく、グラデーションを生きる

結局のところ、「大人とは何か」という問いに、たったひとつの決定的な答えは見出せないのかもしれない。

それでも少なくとも、「子ども」と「大人」を明確に切り分ける二項対立の世界からは、少し自由になれるはずだ。

完璧な大人になれない自分を責める必要も、社会の求める役割に100%盲従する必要もない。

大切なのは、社会との調和を保ちながらも、自分自身の基準を見失わないことだ。

クロ

行ったり来たりしながら、少しずつ進んでいけばいいんだニャ。

私たちは、完成された大人という「型」に自分をはめ込むために生きているのではない。

不完全さも、内向的な慎重さも、時折のぞく子どもらしさや無邪気さも抱えていい。

いろんな仮面を使い分けながら、時に子どもに戻ったり、時に役割を演じたり、時に理不尽に耐える。

ペルソナを脱ぎ捨てた先にあるのが、本当の自分?

いや、ペルソナを含めて本当の自分だ!

どんなペルソナを、どれだけ持っているか。そこまで含めて、自分なのだ!

揺らぎ続ける過程そのものを愛していくこと。それこそが、私たちが「大人を生きる」ということなのだろう。

免責事項

本記事は、各種データや社会的な視点をもとに、筆者個人の見解として考察をまとめたものです。

取り上げたテーマには多角的な議論や様々な立場が存在します。

また、記事の内容は客観的な正解や絶対的な基準を保証するものではありません。

あくまで物事を考える上での一つの視点として、ご自身の価値観や判断を大切にしながらお読みください。

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