先日、仕事の研修で某ビジネスホテルに泊まったとき、テレビから流れてきたCMのある一言が妙に耳に残った。
「商品を売るなら、ビジネスパーソンがリラックスしているホテル利用時が最適だよね」
「ホテル利用時は、購買意欲が高まりやすい」
これは「商品のターゲット層にホテル利用者が多いなら、我が社の広告を活用してみませんか?」という提案だ。
しかし私は、このCMにどこか強い違和感を覚えた。
「判断力が鈍っている状態」にあることを前提に、その隙間へ欲望を流し込もうとしているのでは?
もちろん、現代は消費社会であり、企業にとっては極めて合理的な戦略なのだろう。
人の感情や心理状態に合わせ、最適なタイミングで広告を届け、継続的に利益を生み出せる構造を作った側が勝つ。
だが、その構造を消費者側から眺めたとき、そこには少し違った景色が見えてくる。
潜在的な欲求は、潜在的な欲求のまま眠らせておいた方が、本当は健全なのではないか?
私たちは普段、自分の意思で合理的に選択していると思っている。
しかし、その選択の奥には「比較への敏感さ」や「他者に負けたくない」という本能が潜んでいるのかもしれない。
そして現代のマーケティングは、その本能を極めて巧妙に刺激し続けている。
ホテルでリラックスしている時、私たちは普段張っている「社会的な見栄の鎧」を脱ぐ。
同時に心理的に隙が生まれる。マーケティングはその隙(認知バイアス)を突く
この記事では、進化論から見る人間の性質を基準に、この「消費社会と個人」について考えていきたい。
ただし、厳密な科学解説ではない点には注意してほしい。
あくまで、進化論をレンズとして現代の消費社会を眺めた評論として読んでもらえれば幸いだ。
目次
私たちは「自分の意思」で選んでいるのか
ダーウィンから始まった進化論は、科学の中でも非常にシンプルでありながら、同時に極めて複雑な学問だ。
なぜキリンの首は長いのか。
「高い場所にあるエサを食べるために、世代を重ねて首を伸ばした」と私たちは思いがちだ。
この理解は少し誤解を招きやすい。 キリンは「高い草を食べるため(目的)」に進化したわけではない。
たまたま首が長く生まれてきた個体が、結果として高い草を食べることができ、生き残りやすかっただけなのだ。
進化とは「目的や進歩」ではなく「結果」の積み重ねである。(という事実が頑健に支持されている)
さらに言えば、進化とは極めて長い時間をかけた「確率」の現象でもある。
進化論の基本
個体ごとに、ランダムな遺伝の「変異(個体差)」がある。
環境に対して「有利な変異」を持つものが、より多く生き残り、子孫を残す。
それが何世代にもわたって繰り返され、種全体の特徴が少しずつ変化していく。
そして進化論の中でも、この記事で取り上げるのは「なぜ生物には性があるのか」という問題である。
なぜ性があるのか|走り続ける赤の女王
なぜ生物には「性」があるのか。
冷静に考えれば、単一で生殖できる無性生殖の方が、より効率的に遺伝子を残せるようにも思える。
その説明として知られているのが「赤の女王仮説」だ。
赤の女王仮説
生物が生き残るためには、周囲の環境に適応し続けなければならないという仮説。
『鏡の国のアリス』に登場する「その場にとどまるために走り続ける女王」に由来する。
まず前提として、人間は食物連鎖の頂点ではない。背後には常に、細菌やウイルスのような寄生者が迫っている。
簡略的にトランプで例えるなら、無性生殖は「A234」という遺伝子から、「A234」しか作れない。
突然変異を考慮しても、せいぜい「A345」や「2345」のような、小規模な変化しか起こせない。
しかし有性生殖(性)があれば、他人の持つ「5678」のカードと混ぜ合わせることができる。
世代ごとに「A278」や「56A4」といった、全く新しい組み合わせを瞬時に作り出すことができる。
加えて、寄生者は人間とは比較にならない速度で世代交代を繰り返す。
生物を「錠前」に例えるなら、寄生者はその鍵穴に合う「鍵」を探し続けている。
無性生殖では、錠前の構造が固定化されるため、一度突破されると極めて脆い。
しかし有性生殖なら、世代ごとに異なる「錠前」を作り出すことができる。
なぜ性欲が存在するのか。遺伝子が「錠前を変え続けろ」と、生物を駆り立てているからだ。
だが、ここで新たな疑問が生じる。
お互いのカードを均等に持ち寄って混ぜ合わせればいいだけなら、なぜその役割に非対称性が生まれたのだろうか。
性淘汰から見る「終わらない比較ゲーム」
なぜ私たち人間の性は「精子」と「卵子」の二つに分かれているのか。雌雄同体の方が効率的にも思える。
しかし生物はそうは進化しなかった。考えられる理由の一つに、内部崩壊の危険性があげられる。
その背景には、体内で行われている「官僚政治」のような問題がある。
私たちの細胞の中には、エネルギーを生み出す「ミトコンドリア」というオルガネラが大量に存在している。
もともとは別の生物だった存在であり、独自のDNAを持ちながら、宿主と共存している。
では、性行為によって精子側のミトコンドリアと、卵子側のミトコンドリアが出会ったらどうなるのか。
実際には、精子側のミトコンドリアは卵子側のシステムによって分解され、ほとんど残らない。
もし両方のミトコンドリアが同時に残れば、細胞内で利害対立が起き、統治が不安定になる可能性があるからだ。
管理を厳密にするために「小さな配偶子(精子)」と「大きな配偶子(卵子)」という異形配偶子生殖が進化した。
繁殖において、生き残るオルガネラは一つ。
交配に関わる性の種類が増えれば増えるほど管理ルールは複雑になり、コストも高くなる。
だから人間の性は三つでも四つでもなく、コスパのいい二つなのではないか?
性行為を会社に例えると
【母親会社の役割】 新会社のオフィスを提供する。
社内システムやインフラも、基本的には母親側のものをそのまま利用する。
【父親会社の役割】 機動力重視の営業マンを1人だけ送り込む。
ただし、自社の社内システム(ミトコンドリア)は持ち込まない。
持ち込むのは、会社の最重要データである「核DNA」だけである。
そして、この「役割の非対称性」は、そのまま性淘汰という競争を生み出していく。
データだけを運ぶ「父親」はコストがかからない。
より多くの取引先へデータをばら撒こうと「精子の量」を爆発的に増やした。
一方で、インフラごと提供する「母親」は、どうしても1つあたりのコストが高くなる。
メスは「慎重に相手を選ぶ側」になるが、オスはコストが低いため「選んでもらうためにアピールする側」になる。
たとえばクジャク。オスの尾羽が大きく鮮やかであればあるほど、メスにとっては「性的な」シグナルになる。
本来なら、生存だけを考えれば派手な尾羽は不利だ。目立つし、動きにくい。
それでも進化したのは、「それでも生き残れるほど優秀だ」という証明になるからである。
より選ばれやすい個体ほど、より多く遺伝子を残せる。
繁殖対象に選ばれるためには、性的に魅力的でなければならない。
そして人間の場合、一度の出産と子育てにかかるコストが極めて大きい。
そのため、男女ともに「できるだけ優秀な番を選びたい」という性淘汰の圧力を強く受ける。
人間にとっての「派手な羽」はなにか?——「知能」や「文化」そして「消費」ではないだろうか?
だから人間は、ユーモア、センス、社会性、美しさ、経済力、清潔感などを通じて、自分の価値を示そうとする。
ロマンチックな演出、高級な贈り物、ファッション、美容、整形、筋トレ、ブランド品。
私たちは「自分らしさ」「自己成長」を表現しているつもりなのかもしれない。
しかし進化論の見地からは「他者より魅力的でありたい」という比較ゲームとして説明できてしまう。
恋愛・美・ユーモアは競争に使われる
なぜ女性は肌を綺麗にし、容姿を整え、美しさを競い、左右対称性を気にするのか。
進化論的に見れば、それが「健康」のシグナルとして機能するからだ。
寄生虫や病気に侵されていない個体ほど、肌や髪、顔立ちのバランスが整いやすい。
一方で、なぜ男性は力を気にし、支配力を競い、経済力や甲斐性をアピールしようとするのか。
それもまた「生き残る力」を示すシグナルだからである。
より強く、より資源を持ち、より社会的地位が高い個体ほど、繁殖競争で有利になりやすい。
暴力性や攻撃性も、歴史的にはライバルを排除し、生存圏を確保する能力としての側面がある。
私たちは利己的に動く。男性は自身の遺伝子を多く残すために。女性は一流の遺伝子を受け取る為に。
そして現代、多くの「性的魅力」は、そのまま巨大な消費市場へ接続されている。
ユーモア、会話のセンス、知性は、自己啓発セミナーや書籍として商品化される。
ロマンチックな演出、ファッション、美意識は、芸術やブランド産業として経済を回す。
ダイエットサプリ、美容医療、筋トレも「魅力的になりたい」という欲望と結びついている。
これらを総合すると、こう言い換えることができる。
消費社会とは、他者よりも「派手な羽」を手に入れたいという「比較」が経済エンジンになった競争社会である。
性淘汰と自然淘汰とマーケティング
もちろん、私たちのすべての消費がこの「性淘汰的な比較」のためだけにあるわけではない。
消費には大きく分けて2つのジャンルがある。
自らの「生存や快適さ」を求める消費(自然淘汰への適応)
他者へ自分の価値を証明するための「記号的・アピール」の消費(性淘汰・ハンディキャップ)
現代のマーケティングが巧妙なのは、消費者にも企業側にも、生存や繁殖的な適応を強いている点にある。
本来は「生存・快適さ」で満たされるはずの領域にまで、終わりのない「競走」の不安を持ち込んでくる。
マーケティングは「不安」を刺激する
進化論にはどこか冷徹な側面がある。
愛情、努力、美しさ、ロマンチシズムでさえ、「生存」や「繁殖」という観点から説明できてしまうからだ。
そういう意味で「適応主義的」な進化論は、宗教や哲学が持つ理想論を一刀両断してしまう。
しかし逆に言えば、この視点は現代のマーケティングを理解する上で極めて役に立つ。
消費社会は「解決」より「対処」を売る
消費社会とは、生産された大量のモノやサービスを、大衆が継続的に消費することを前提とした社会である。
人類規模で言えば、大量廃棄、資源の枯渇、地球温暖化などが問題視されることは多い。
しかし「個人の消費」の視点から眺めると、そこには別の問題が見えてくる。
たとえば「地球に優しそう」というイメージだけを演出する商品群。いわゆる「グリーンウォッシュ」である。
モノやサービスの供給者は、根本的な「解決」よりも、「対処」を売る傾向がある。
つまり、問題そのものを終わらせるのではなく「解決した気分」を継続的に提供する。
これはテレビCMを見れば分かりやすい。
多くの場合、描かれているのは「原因の解決」ではなく、「症状への表面的な対処」だからだ。
原因の表面的な対処
肩こりや腰痛に対して、「この商品を使えば改善する」と演出する。
:原因は姿勢や身体の使い方、生活習慣そのものにあるかもしれない。
消臭スプレーを吹きかけることで、部屋が一瞬で爽やかになる演出。
:ニオイの根本原因であるカビ、雑菌、汚れの蓄積は残ったままである。
挙げればキリがないが、多くの場合、原因そのものは残されたままだ。
さらに極端なケースでは、「良い香り」や「気分の高揚感」によって、原因から目を逸らさせることすらある。
もちろん、本当に原因へ向き合う商品やサービスも数多く存在するだろう。
ただ問題は、消費者側に「それを見抜くコスト」が発生することだ。
マーケティングにおいては「派手な羽」すら必要ない。派手な羽に「見せかける」ことさえできれば。
この構造はモノだけでなく、社会的ラベルですら商品化される。
HSP(繊細さん)、ミニマリスト、フェミニスト、自己肯定感、丁寧な暮らし
本来は「状態」や「価値観」を説明する言葉だったものが、市場の中では消費対象へ変換されていく。
そして、その多くは根本的な解決ではなく「その場をやり過ごすための対処」に留まっているのかもしれない。
社会的ラベルを「儲けるために利用しているだけ」なのかどうか、どうやって判断すればいいのだろう。
厄介なのは、実際に問題(実害)が起こってからでないと、その欺瞞に気づけないということだ。
このブログも「内向型」というラベルを利用しているニャ。
ダイエット・美容・自己改善は終わらない
人類は何百年にもわたり文明を発展させてきた。
暮らしは便利になり、医療は進歩し、テクノロジーは日々更新され続けている。
しかし、進化論の視点から見ると、私たちは本質的には一歩も前に進んでいないのかもしれない。
女性は、我が子を共に育ててくれる男性を探しつつ、より良い遺伝子も求める。
男性は、より多くの資源や影響力を得ようとし、それを通じて繁殖機会を広げようとする。
つまり私たちは、寄生者、同性、異性、社会環境と、延々と形を変えながらチェスを続けている。
昔のチェスの駒は、権力、地位、武力、土地、財産だった。
しかし現代では、民主主義や資本主義の発展によって、露骨な「暴力性」そのものの価値は相対的に低下した。
現在の駒は、容姿、知力、ユーモア、センス、SNSの影響力、学歴、自己演出などへ変化している。
美容医療、筋トレ、ダイエット、自己啓発、AIスキル、ブランディング。
現代人は「自由に選択している」と感じながら、別の形の競争へ適応し続けている。
つまり、こういうことだ。
チェスの駒が変わっただけで、進化的な競争そのものは、何一つ終わっていない。
私たちはどこに向かうのか?
私たちは、想像以上に遺伝子の影響を受けながら生きている。
男性はより多くの繁殖機会を求めやすく、女性はより安定した関係性を求めやすい傾向がある。
実際、歴史上の権力者や皇帝の多くは、一夫多妻制に近い構造を持っていた。
これは現代日本のエンタメ作品でも見られる。
多くの男性向け作品では: 主人公が複数の魅力的な異性から同時に好意を寄せられる状況
多くの女性向け作品では: 有能な人物から、特別な存在として圧倒的な資源や愛情を注がれる
もちろん、これは個人差や文化差を含む話(ステレオタイプ)であり、すべての人に当てはまるわけではない。
権力を意識する女性もいるし、安定した関係性を求める男性も当然いるだろう。
ただ少なくとも、数百年で文明が劇的に変化した現在も、性や承認欲求の根本構造は大きく変わっていない。
しかし現代は、欲求そのものが消費社会の市場へ組み込まれている。
美しさ、若さ、知性、自己肯定感、恋愛力、コミュニケーション能力、精神的成熟。
本来は人生経験や時間の中で育まれていたものまで、「購入可能な価値」として並べられていく。
そして近年では、哲学や心理学、統計学の分野で「持続的な幸福」という言葉も語られるようになった。
だが、遺伝子は、乗り物である私たち個人の「持続的な幸福」を目的にはしていない。
遺伝子にとって重要なのは、あくまで生存と複製という「結果」である。
私たちは生物、動物として振舞うべきなのか。それとも、人間として振舞うべきなのだろうか。
レースからどう距離を取るか
進化論を突き詰めていくと、人間の自由意志そのものが幻想のようにも思えてくる。
「欲望も、恋愛も、美意識も、承認欲求も、すべて遺伝子に駆動されているだけではないか」
しかし、だからといって、人間に自由が存在しないわけではない。
私たちには避妊の自由がある。結婚しない自由もある。
子どもを持たない選択や、競争から距離を取る選択もある。
そして何より、人間には「意味づけの自由」がある。
「私たちはこう作られている」という事実から「だからこう生きるべきだ」という倫理を導く必要はまったくない。
「なぜ欲しいのか?」を問い直す
ここまで、消費社会とマーケティングをかなり批判的に語ってきた。
しかし、功利主義的に見れば、マーケティングそのものが悪だとは言い切れない。
企業は利益を求め、人は便利さや快適さを求める。
その結果として市場が成立している以上、それ自体は自然な構造でもある。
問題はむしろ個人側にある。自分が「走らされている」と気づけるかどうか。
比較、不安、承認欲求によって、自動的に消費へ向かっていないか。
結局のところ、答えは非常にシンプルな場所へ行き着く。能動的に「なぜ」と問い直すことである。
なぜ私は、この商品が欲しいのか。
この商品は、自分に何を与えるのか。
逆に、この商品を買うことで、自分は何を失うのか。
それは本当に「必要」なのか。
それとも、不安や比較感情から欲しくなっているだけなのか。
「結局は自己啓発的な内省か」と思う読者もいるかもしれない。
だが少なくとも、「考えること」は、消費社会に対抗する数少ない手段になり得る。
生存に尽力しなくても、繁殖を強いられなくてもいい現代で「なぜ欲しいのか?」を問い直すこと。
それは、遺伝子が仕掛けた「繁殖せよ」というプログラムに「自由意志」というバグを差し込む行為に他ならない。
――いや、待て。それ自体がマーケティングに抗うための「表面的な対処」に過ぎないのではないか?
「私は本能をコントロールできている」という知的な見栄(新しいクジャクの羽)をまとっているだけかもしれない。
遺伝子が仕掛けた比較ゲームの檻は、それほどまでに強固だ。だが、私たちはそれでも問い続けるしかない。
その商品、その行動、その考え方は「表面的な対処」なのか。それとも「根本的なアプローチ」なのか。
「他者の目」を引かない消費へ
私たちは、比較の中で生きている。体型、顔立ち、人間関係、収入、能力、知性、センス。
あらゆる自己イメージは、他者との比較によって形作られていく。
競走・比較ゲーム
(人よりも)仕事ができる・できない
(人よりも)運動や勉強ができる・できない
(人よりも)他者に愛されている・愛されていない
そして現代のマーケティングは、この「比較感情」を極めて巧妙に刺激する。
時代ごとに「優秀さ」の定義は変わるが、常にそこには「他者より魅力的でありたい」という競争がある。
昔はブランドものだった。今は知名度を求めるかもしれない。
次はAIリテラシー、その次は健康寿命、さらにその先では「精神的成熟」すら競争対象になる可能性もある。
比較ゲームそのものを終わらせることは、おそらくできない。
だが、自分の消費が「他者の目」を引くためのものなのか、自分を満たすものなのかを意識することはできる。
半額だから買う。
流行っているから買う。
「みんな持っている」から買う。
そうした反射的な消費を少し減らす。
誰にも言わない、SNSにも載せない、それでも自分にとって価値がある消費とはなにか?
そして「欲しいものを、必要なときに選ぶ」だけでも、レースとの距離感は変わってくる。
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「デジタル機器の使い過ぎはよくない。脳疲労や眼精疲労、睡眠不足や運動不足に繋がるから」 だから使用は控えよう。——道理である。しかし、本当に問題はそこなのだろう…
私たちはどこに向かいたいのか?
「私たちはこのように作られている」
なるほど、たしかに科学は、人間の「土台」を知るのに最も適した方法の一つだ。
進化論は、なぜ人が比較し、競争し、承認を求め、不安になるのかを説明してくれる。
しかし科学は、「どう生きるべきか」という価値判断までは教えてくれない。
科学や事実から「べき論」を導くことはできない。
人間は、あらゆるものに意味づけを行い、自ら目的を作り出して生きる存在でもある。
そして、その目的に「科学的な正しさ」は必ずしも必要ではない。
私が進化論を引用したのは、私たちの「根本」にアプローチするためだった。
「私はなぜ競走してしまうのか」を理解する上で、進化論は非常に有効な視点だったからだ。
今回の記事にそれを流用したのは、ビジネスホテルで感じた違和感を、自分なりに言語化したかったからである。
私たちは、社会倫理の中でなら、自身の欲望と向き合う自由を持っている。
比較ゲームを降りるのは難しいが「何に駆り立てられているのか」を理解し、自分で選択することはできる。
あなたは、どこへ向かいたいだろうか?
免責事項
本記事は、進化論・心理学に関する書籍や研究をもとに、筆者自身の視点で考察した内容です。
学術的な議論にはさまざまな立場や反論が存在し、本記事の内容も正解を示すものではありません。
あくまで一つの視点として、自身の感覚や価値観と照らし合わせながらお読みください。
参考文献
【赤の女王 性とヒトの進化】
マット・リドレー(著)長谷川眞理子(訳)ハヤカワ文庫:2014年
【利己的な遺伝子〈40周年記念版〉】
リチャード・ドーキンス(著)日髙敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二(訳)|紀伊國屋書店:2018年
【ファスト&スロー(上・下)】
ダニエル・カーネマン(著)村井章子(訳)早川書房:2012年
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